理想的な逝き方とは
昨夜は大切な信徒さんの通夜に参列しました。
数日前、不調を訴えられ奥様と病院へ。心臓に疾患があることがわかり入院。そして数日後にお亡くなりになられたそうです。
突然の出来事にご家族も当然驚愕されたことと思います。また奥様はご自身の対応にミスがあったのではと、思われるタイミングもあったように伺いました。
会場で旅立たれた御主人と面会しますと、なんと表現したら良いでしょうか、「眠っている」この表現がピッタリではないかと思います。
肌も艶々しており、思わずおでこを撫でて差し上げて「ご苦労様でございました」とお声をおかけしました。
奥様は「先生、ありがとうございます。本当に仏様のお陰です。お医者様からも疾患を持ったままであれば、足腰も立たなくなるだろうし、加齢もあって認知機能にも影響が出てくると思うし、どのように手当をしていくことが望ましいのか、と考えておられたそうです。でもなくなる少し前には、主治医の先生にも、頑張りますからと言っていたそうです。ですから本当に病の苦痛を持って亡くなったのではなく、寿命でお迎えをいただきました。」このように語って、本当に安心した笑顔で始終おられました。
人の亡くなり方は様々。
皆さんはご自身の亡くなり方、どれがお好みでしょうか?
私の経験上、「コロッと逝きたい」が圧倒的多数を占めます。そうですよね、長く苦痛は受けたくない。周りの人達に負担をかけたくない。自分自身の醜態はなるべく晒したくない。みんな考えるところです。
ではお聞きします、コロッと逝ってもよい準備は万全でしょうか?
理想的な逝き方を望むだけでは、理想的な逝き方には足り得ません。
「発つ鳥あとを濁さず」です。
コロッと行きたい人は、コロッと逝っても大丈夫なような「逝き方」よりも「生き方」をしないとダメなんです。
この度の御夫妻、御主人が現役を引退されてのち、少し身体が弱くなられました。しかしその御主人を甲斐甲斐しくお世話され、一日一日を大切に過ごしておられました。まさに「コロッと逝く準備」ができていたということです。
正しい信仰の本当の価値はここにあります。
目先のことの希望が成就するとかよりも、この一大事をいつでも迎えられるかどうか、これが信仰の本当の価値であると思います。
本当の信仰はまさに「終活の極み」であります。
さあ、今日一日。