国家的に正しい終活が必要かと
今日は個人の終活から幅を広げて「国家的終活」に目を。
産経新聞の阿比留瑠比氏の極言御免から。
「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」という世界恐慌下、好景気と称された
ソ連を舞台に、実在の英国人記者ガレス・ジョーンズのお話を引き合いにされ
リベラル全体主義を懸念する紙面がありました。以下紙面より抜粋
全体主義、共産主義が「リベラル」というソフトな装いで忍び寄り、逆らい難い
「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」を掲げて、保身と勢力拡大を目指し
ているようにも思える。
映画を紹介してくれた議員はこんな話もしてくれていた。
「以前は左翼だと名乗っていた連中が、冷戦終結以降は左翼が恥ずかしい言葉になった
ので自分はリベラルだと言い出し、リベラルに逃げ込んでいる」
もちろん、「リベラル」の本来の意味は「自由主義的なさま」のことだが、わが国の
「和式リベラル」はむしろ正反対である。
多様性を訴えながら自分たちが気にくわない言論は弾圧し、封じ込めて社会を一色に
染めようとする。反論しにくい「平等」「差別は許されない」といった言葉を多用し、
異論がある人も沈黙させる。重んじるのは自身と仲間の権利と自由ばかりで、他者の人
権や不自由には関心を持たない。
密告を奨励し、伝統や家族関係を壊し、邪魔な相手は集団でつるし上げ、国民意識を
画一化する。そんな正義を隠れ蓑にした「和式リベラル」が支配する社会はどこに行き
つくか。かつて左翼があこがれたソ連や北朝鮮、中国のような全体主義ではないか。
(以上紙面)
日本は戦後75年を経過し、骨抜きの団体にする意図を含む「日本国憲法」により、潜在的に感覚がゆがめられてきているのではないでしょうか。
「平和」「自由」「平等」そして「多様性」という言葉が闊歩し、いつの間にか「リベラル全体主義」が主流となり、かつての「共産主義」が名を変えて浸食してきているように感じてなりません。
私達は一人では生まれてこれません。父と母がいて生まれてきたのです。どうしたらこの基本に気付ける人を増やせるのでしょうね。大きな家族が「国家」であります。国家的終活を行うべきは「国民」なのでありますから。