葬式って
久しぶりにブログ更新です。
最近、世の中の軸がずれてきているように思います。
以前から申しております通り、私は多様性という言葉が大嫌いです。言い換えると、何でもあり、となりますから。
先般、オリンピックの会長さんが女性蔑視の発言をしたとかで、いじめに遭って辞任されましたが、どこが差別に該当するのか、わたしにはわかりません。
人が人としての営みを継続するには、らしくあることが不可欠です。
まずは人らしく。
次に男性らしく、女性らしく。
そこから先が、向き合う人によって授かる称号、夫、妻、長男、長女、婿、嫁などなど。
これらが無くなったら社会は崩壊します。
らしくあることを否定する人たちは、この社会で生存することを自ら否定していることになる、そのことに気づいてないのでしょうね。誠に哀れと。
そんな多様性社会の煽りを受けている一つが葬式でしょうね。
少子化から年老いた親は、子が面倒見れない環境になっております。
老人は老人を見てくれる専門職の人が見てくれる。これが今の主流になっております。
百歩譲って仕方ないとしましょう。しかし、仮にも自分を産み、又は育ててくれた人であることは、夢夢忘れてはなりませんよね。
少しでもせわになったひとには、きちんと挨拶して、御礼をされませんか?でも何十年、自分が一人で歩ける時まで甲斐甲斐しく世話をしてくれた人にはいかがでしょう?
最近の葬儀のとらえかた、かなり間違ってきてませんかね。全てとは申しませんが、最後の儀式が葬儀です。決して華美でなくて良いでしょう。しかし、想いだけは込めて行うべきではないでしょうか?
極端に申しますと、廃棄物の処分の儀式に成り下がってしまっているのではと心配するほどです。
こんなことが主流になったら本当に人類は無くなりますよ。大自然の法、摂理に則って運営してこそ、生きることを許されているのです。
その法に抗わば、人は生きる許しを剥奪されることでしょう。
皆さん、大事なことは何か、見失わないでね。