お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

愛と生命と寿命

最近ブログに書くことがなかなかできなくなって、数少ない読者の方には、苛立ちと諦めを抱かせていることと思います。全くズボラな筆者をご海容ください。

 

実家の母が少し認知症になり、サ高住に入ったかと思うとすぐさま骨折。手術を受け現在入院中という環境であります。

北海道はコロナの急速な拡大が見られ、勿論病院には地元に住む身内も、見舞いがままならない。

齢88歳の老婆は、間違いなく箱に入る準備段階に入っていると言えましょう。

 

そんな中、デンマーク精子バンクから精子の提供を受けた日本人が150人を超えたという記事を目にしました。不妊治療を受ける環境のご夫婦で、男性が無精子症である方などが提供を受けておられるのかなと思います。

 

さて「子供を授かる」これは大宇宙の中の奇跡の一つであります。よく「生命の神秘」としてテレビでも受精や血液などが取り上げられますが、まさに神秘の名の通り、「神が秘めたるみわざ」であります。

一般的に男女の婚姻は自然の摂理です。

陰と陽、プラスとマイナス、雌雄と森羅万象は一対をもって整えられております。

人の場合、婚姻の源泉は相手を大切にしたい、相手を守りたい、かつその延長線上にある、独占欲があろうかと思います。

そして、互いを愛し合うが故に性の交わりが交わされ、生命の誕生が発生する。つまり生命の誕生の起源は「愛」であると言えましょう。

 

「種の保存」生物学的にはそういった言葉がありましょうか、私たちもある面、「家」という歴史を存続させる意味において、種の保存が必要なものと捉える見方も間違いで無いと言えます。

不妊治療により、男性の無精子症が改善されることから、新たな生命が誕生するならば、これは自然の摂理に敵いましょう。しかし、そうでないとするならば、果たしてそれは自然の摂理以外の分野においてなされた「神の領域外の働き」ではないかと感じます。でも神の領域外の働きは自然の摂理に逆走することなのかな、と思うのです。

 

夫婦の幸せの価値として、子供を育て、家を継承する存在、自らの老後を守ってくれる存在を求めらことは自然なことです。でも果たして他者の種からの命を宿すことは、流れとして適当なのか、私は答えを出せておりません。

 

命には必ず寿命があります。

生あるものは必ず滅します。

形あるものは必ず崩壊します。

「誕生」「生育」「死」この営みは神の領域であり、我々の科学や医術がどんなに発達を遂げても、それは補助的領域を超えることはできない。

この真理を知って、それぞれが判断しなくてはならない時代が到来しているということです。

改めて「いのち」について考えてゆかねばなりません。