「そこそこ」の「そ」
先日、とある駅で降りてタクシーを待つ間、ふと目の前に「特別養護老人ホーム」がありまして、送迎の車が2台、稼働していました。
「この建物の中には、いろんな様子の方が」と思いました。
ご高齢の方、足腰の自由が効かない方、認知症の方などなどでしょうか。
それを思った時、適当なところで「逝ける」幸せの価値を感じたのでした。
具体的な描写は避けるとして、生きていることが哀れな方もおられるのかな、ということです。
自分はどうなるのか全くわかりません。しかし希望を言えばですが、子育てが終わり、社会的な役割りもほぼ無い状況になれば、速やかに逝きたいと思ったのであります。
もちろん、自分から進んで死に至ることはできません。しかし、「そこそこ」の時点で逝ける方が幸せなのかなと思うのであります。
生き物は「生」への執着があります。
これがあるから生きていられるのです。
もしかするとこんなことを言っている私も、年頃になると、全く反対のことをいうのかもしれません。でも、今の時点では、そこそこが望みたいところです。
まだ、そこそこの「そ」くらいかなと思っています。
もしかするとこの感覚が既に、「生」への執着のスタートかも知れませんね。
あなかしこあなかしこ。