終活は「笑顔」から
前述のブログに続いて終活のイロハ。
私は「お坊さんが語る終活講座」を開いておりますが、そのテーマは「人と人とのかかわり」です。
前回、「挨拶」について記事を出しましたが、今回は「笑顔」です。
さて、私たちの生活には何らかのツールによる「コミュニケーション」が不可欠であります。
かかわりとはまさにそのことかと思いますが、皆さんは人ととの出会いを何によって認識しておられますか?
体の感覚器官に障害がおありの方もおられますが、多くの方は「視覚」により、コミュニケーションが起動されようかと思います。
仏教では私たちの感覚器官を
眼・耳・鼻・舌・身・意として、これを「六根」と表現します。
よくお山へ登られる際、「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら登られる方もありますが、神聖な場所へ至るため、自らの感覚器官が清らかであることを祈りながらお唱えするのですが、この「六根」のうち1番最初に来るのが眼、すなわち「視覚」なのです。
遠くから懐かしい人が近づいて来たら、
「久しぶり、元気だったか!」から始まると思いますが、言葉のコミュニケーションを取る前に、実は視覚でキャッチしてから、様々なアクションが導き出されているのです。
つまりまずば見る、いいえ「見られる」からスタートしているのです。
さあ、あなたは向かって来る人の顔が、
笑っている、怒っている、泣いている、どれであって欲しいですか?
笑っている、ですよね。中には怒ったり、泣いたりしている人をターゲットにビジネスをされる方もあるかもしれませんが、普通は笑っている人が良いですよね。
そうです。だから
「私も笑顔をこころがけよう、私を知っている全ての人が、私が周りに笑顔を求めるように、みんなも私の笑顔を待っている」となるべきなんです。
もちろん、悩む時、苦しい時、悲しい時、笑顔が難しい時もありますよね。それはそれでいいじゃないですか。
だから「こころがけ」るんです。
あなたが無意識に「見せている」笑顔は、向き合う人の心を和らげる頓服薬になっているはずです。
お互いこころがけましょうね。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
終活は「あいさつ」から
シニアの皆さんが終活というキーワードに、顕著な反応を示す昨今、自身の安心と周囲への思いやり、この二つを軸として全ての終活は展開されております。
年金、介護、医療、保険、相続、葬儀、お墓
どれもこの軸から派生した方法であります。
でもこうして眺めますといかがでしょう、みんな費用のかかることであります。
年金や保険には掛け金が。
介護、医療、相続、葬儀、お墓にはもちろん費用がかかります。
私たちが消費生活をおくる以上、費用の発生はセットものであります。
では、終活とはお金のかかる活動なのでしょうか?お金がないと終活できないのでしょうか。
全ての人には亡くなる時が来ます。
何時かはわかりません。でも全ての人が同じ条件下で暮らしているのです。
以前に「毎日が終活」というタイトルで、講演させていただきました。
私の考え方はこの考え方です。
いつ訪れるかわからないその瞬間。その時にこそ慌てずにたんたん終わりの瞬間を心穏やかに受け入れるのが、終活の最大の目的だと思います。
ならばお金の有無にかかわらず、全ての人が穏やかな終末を迎えてもらえるはずです。
ではお金のかから ない終活の取り組みは何か、
「人と人とのかかわり」です。
そのいろはのイが「挨拶」です。
「なんだそんなことかー」でも人と人とのかかかわりに無くてはならないのが、挨拶なのです。
挨拶、とても簡単な身近なツールです。
でもこんな事ないですか、たとえば会社などでの上下関係があります。
部下は上司に対して挨拶をします。上司はそれを受けて、挨拶を返す。何ら普通の場面です。
でももし、その挨拶を、部下と出会った上司が「待つ」としたら、それは人と人とのかかわりを持つのには不適格であります。
つまり、挨拶は待つものではなく、こちらから先にするものなのです。
相手よりも先に声をかけてこそ、気持ちのいい人とのかかわりができるという事です。
夫婦、親子、兄弟の関係でも全て同じです。
いつ訪れるかわからないんです。
次の瞬間かもしれません。だからこそ、この「挨拶」を先にすることを徹底すべきなのです。
終活はお金がかかることだけではありません。
まずば挨拶からこころがけ、自身の安心と周囲への思いやりを成立させてはいかがですか?
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
「姥桜も満開」花びより金剛寺2018
4月8日はお釈迦様のお誕生日です。
一般に「仏生会」または「花まつり」として耳にする行事が、寺院などで行われます。
大阪市鶴見区の総本山金剛寺では、春の佳き日を選び、地域の皆様をお招きして「花びより金剛寺」を毎年開催しています。
今年は桜の開花が早く、当日はソメイヨシノに代わって八重の桜が満開の中、4500名の方が仏縁に触れられました。
「神さん、仏さんは、お父ちゃん、お母ちゃんということ」斯様な教えがある金剛寺。この日も人々のみならず、神仏が歓喜集合する様相でありました。
地元、鶴見神社様の花谷宮司様が祭主をお勤め下さり、地車を依り代としての「ご遷座式」から始まり、続いて大阪府佛教青年会、大阪市仏教青年会の僧侶の方々に御出仕頂いての仏生会。行道中、お坊さんが振り撒く「散華」が風に舞い仏誕の歓びを醸し出しました。
白象に乗った誕生仏に甘茶を濯がらる人の列が何十メートルもにもなっていました。
うまいもん広場では、たこせん、ホットドック、うどん、おでん、ポップコーン、つきたてのお餅などが振るまわれ、ご家族連れを中心に美味しそうに召し上がっておられました。
そんな中、私も10分ではありますが、花びより法話として、2ステージを汚させていただきました。
1回目は仏生会にちなんだお話。2回目はハスの花の徳についてのお話を用意していましたが、場の雰囲気から、「ソメイヨシノは散りましたが姥桜が満開」というお話をさせていただきました。
その話になった途端、「ワハハハハー」と聴衆の皆さんが湧き上がりました。なにせ私の目の前にある状況を言ったのですから。
そこで改めて「姥桜」の説明をさせていただきました。みなさんももしかしたら、あまり良い意味で捉えていないかも知れませんが、この言葉は高齢の女性を褒める、褒め言葉であります。
葉が無い時に咲く花を総称する言葉で、「歯がない」時でも艶やかに咲く花、つまりご高齢になってもなお、美しく、艶やかに咲き誇っているような様子の女性、というのとなのであります。知ってましたか?
ですから昨日は平均年齢、ウン十才の美しい女性のお客様がたくさんお見えになっておられた、ということなのであります。
改めて日本語の、日本人の豊かな感性を感じますね。
春夏秋冬という四季の移り変わりを感じられる私達、そういう気候条件が素地となって、私達の感性は養われて来ているのかもしれません。
大自然の営みに、畏敬と感謝を常に持たねばなりませんね。
植物の花と同様、私達も必ず散ってゆく時があります。その時に笑顔で散れるか、憂いを持って散るか、そこをきちんと選ばねばなりません。
笑顔で散るためには、笑顔で散るための今日を過ごすことを心がけねばなりません。
明日、散る時が訪れないとも限りません。
今日を人生で一番の「花ざかり」と心得て、心の胸を張って、明るい一日を過ごしましょう。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
仏壇じまい⁉️
地元中国新聞では「大長寿時代の心配事」と題して、主に終活の記事を掲載しておられます。
今般、墓じまいならぬ「仏壇じまい」的な記事が載っていました。
家に伝わる先祖からのお仏壇。しかしつぎの世代、すなわち祭祀継承者がいないご家庭において、止む無くお仏壇を閉じなくてはならない、という事であります。
悩むところですね。
勿論、天涯孤独という環境の方においては、止むを得ないことかと思います。しかしご兄弟、従兄弟、再従兄弟、甥、姪など何らかの継承手段がおありの方でしたら、何とか継承されるべきかと思います。
例えばA家の本家に代々のお仏壇があったとします。本家には子供さんがおられない。ご主人が他界され、奥さんが施設に入所される段に至った、こんな場合でしょうか。
そんな時、分家(ご主人さんのご兄弟のお宅)があれば、そちらが継承されることで良いかと思います。
勿論、その分家さんのお宅にも、もう既にお仏壇がおありの場合は、一般的には同じご宗派となりますので、ご先祖様の位牌や過去帳などを継承し、お仏壇は然るべき終い方をされたら良いと思います。
ただここで、あってはならないことがあります。それは、信教の自由が保障されている中で、「我が子にも信教の自由がある、だから家の宗派を踏襲させることは、憲法に反するから仏壇は無くしてしまおう」みたいな考え方です。
「そんな飛躍する者はいないでしょう!」
多くはそうおっしゃると思います。
でもわかりませんよ、家族法が変わり、家督の相続がなくなったのが戦後の日本です。
財産は法定分配されるが、この祭祀継承は何となく旧来の名残りとして、主に長兄継承するという形が存在しています。
でもこれだけ、「権利や自由」が叫ばれる世の中になりますと、先述のようなことが起こらないとも限りません。まったく困った世の中です。
生きている人すべてに「先祖」はあります。
一人一人のご先祖様が、一所懸命生きて下さったから今の自分があるのではないですか?
そのご先祖様が大切になさった「想い」の一部が宗教、宗派、教派というものだと思います。
決して軽んじてはならない部分と、私は思います。
色々なご事情があると思います。お一人で悩んでおらずに、ぜひご相談下さい。相談して、あとで後悔のしない方法を選択しましょう。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
もうじき仏生会。
今年は桜の開花が早く、花まつりの頃にはソメイヨシノは葉桜になっているかも知れません。
4月8日はお釈迦様がお生まれになった日として、寺院では仏生会という行事が行われます。
花御堂に誕生仏を安置し、甘茶をかけてお祝いをします。
お釈迦様は生まれたすぐ七歩歩いたとされています。また、かの有名な「天上天下唯我独尊」の言葉を発したとされています。
後世、偉人を讃える象徴として表現されてきたものと思いますが、誰が考えてもあり得ない話ですよね。
仏教は嘘つきだ!という人も中にはいらっしゃるかも知れませんね。
さて、毎週月曜日の地元紙朝刊には、宗教のページがあります。その中に、ある僧侶の方が連載をしておられるのですが、この「天上天下唯我独尊」の解釈についてコメントがありました。
最近、この言葉の捉え方として、一人一人の生命が尊い存在であるとする考え方があるということに対し、それは全くの誤りとされておられ、文末に聞こえ良い、それらしい言葉に惹かれて流されてはならない。といったコメントを書いておられました。(中略してます)
私自身、大学は一応、仏教学部を出ておりますので、経典の解釈についてもそれなりに程度ですが理解できるつもりです。
私は大学在学中、「仏教という学問では人は救われない」ことを知りました。しかし「仏教は人が救われるためにこそある」ことは然りであります。
経典に書かれる解釈も基本を知る上で大切なことですが、より多くの大衆が救われてこそ、仏教の価値があろうかと私は思っています。
お釈迦様が「私の命が一つしか無いと同様、向き合う人の命も一つしか無いのですよ。だから人を愛することを忘れてはならないのですよ。」と仰っておられる、と一人でも多くの日本人が認識したら、会社や学校のいじめは少なくなり、自死に至る悲しみや、そのご家族の行き場の無い辛さも減るのではないでしょうか。
そういった観点から、私は最近の解釈を広くお伝えしたいと思います。
お釈迦様の誕生から、私たち人の誕生の素晴らしさ尊さを実感する機会が仏生会であってほしいと願います。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
直葬ですか?
最近、ご葬儀の広告で「直葬」という文字が存在感を増しているような気がしております。
さまざまな御家庭のご事情があるなか、必要性があるのかも知れません。
私たち人の一生を考えるとき、「生と死」これはいずれの人も必ず通る道筋ですよね。
存在している私は現在よりも過去に「生」をうけた。
そして存在している私は現在よりも未来に「死」を迎える。どちらもが100%の事柄でありますね。
肉体における生命の維持活動の継続が、生きていること。そしてそのスタートが産まれること、その継続が停止することが死ぬことです。
皆さんは子供さんやお孫さんが生まれたとき、きっと喜びを感じ、近くのお宮へお初参りされたり、また満1歳には初誕生でお食い初めをしたり、また七五三のお祝い、また地域によっては虚空蔵菩薩様の智恵にあやかって十三詣りをされるところもあります。
私たちはさまざまなことで神さまや仏様、宗教の違いはあっても、「目に見えない大きな存在」に対して向き合いつつ、人生の通過儀礼を行なっております。
そして最後の儀礼が「葬儀」でしょうね。
「始めと終わり」物事には全てあるものと思います。
人生最後の儀礼である葬儀。何も華美にしなくてはならないことは全く無いと思います。しかし、ちょっと視点を変えてみて下さい。
産まれるとき、自分の力で何か出来たでしょうか?
お母さんのお腹で十月十日、栄養をいただき、一般的には最も苦しい痛みを享受してもらって産み出されたのが私たちですよね。
みんなしてもらっています。
この世に生み出してもらい、育ててもらい、その恩恵は返し切れないものと私は思っています。
なれば、最後の儀礼。自分を生み育てて下さった方に対してせめて、可能な限り、その方の人生を敬い、慈しみに感謝し、惜別の時間を設けること、このくらいは何とかすべきだと思うのです。
華美になる必要はありません。でもその方の通られた人生を讃えてあげるわずかな時間はもってあげていただきたいと思います。
また、送ってもらう立場の私たちもその時間を持ちたいと思われる日々の生き方に、心を砕かねばならないと思います。
直葬という言葉がポピュラーにならないことを願います。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
墓参代行?
今日は午後から熊野町のくまのみらい交流館で、終活講座第5講、エンディングノートの講習をさせていただき、21名の方が真剣に受講下さいました。
熊野会場は来月10日の第6講で一応、完結致しますが、出会うたびに皆さんとの距離が近くなり、その後も何か行事を開催したい感じであります。
さて話は変わりますが、今朝の産経新聞にまたもや面白いというか、あれっ?と思う記事が載っていました。
今やポピュラーな日本語となった「ふるさと納税」その返礼品として「お墓参り代行」があるという記事でした。
平成27年18件であった自治体が今年の現時点では226件になっているということです。
皆さまはどう思われますか?
田舎から遠く離れ、ふるさとのお墓にもなかなか行けない。だから自分の代わりにお参りに行ってもらう。ということかと思いますね。
以前から申し上げます通り、私は「多様化」という言葉で全てを片付けてしまうのはよろしくないと思っております。
本件も同様であり、「ちょっと待った!」であります。
仮に譲歩して「お墓掃除代行」ならばまだ納得すると思います。しかし「お墓参り代行」これがふるさと納税の返礼品?
きっとこの延長線上には、生業としての「墓参代行業」というビジネスが出てくるのではないでしょうか?もうあるのかも知れません。
初めは「ご先祖様に申し訳ない、せめてもの罪滅ぼし」的な感覚でスタートすると思います。
しかしその先には「今は墓参りは代行にしてもらう時代だ」などという言い回しが出現するでしょう。
日本にはたしかに「代参」という文化があります。だからといって身近なご先祖様のお墓を、顔も名前も知らない第三者にお参りしてもらうことが、果たして供養になるのでしょうか?
現代社会のニーズ?軽々に捉えるべきものでは無いように思いますが、皆さんはいかが思われますか?
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌