まずは一日に感謝
今年度初めてとなる、仏教文化講演会が無事に終わりました。
改めて講師はもちろん関係各位に感謝致します。
この度のお話も、中心は「感謝」でありますが、講師の先生の動きを見ていますと、ある意味圧巻されます。
FBにも書きましたが、前々日の夜は新潟で一講演、前日は新潟で二講演、そして夜、飛行機と新幹線を乗り継いで広島入り。翌日は午前午後と二講演。
この度の講演内容はバージョン3、過去1.2のタイトルがある訳ですが、会場によってどの話をするかは決められており日々、会場ごとに話す内容が変わります。
頭の良い先生ですから、もちろんそれくらいのことはこなされる訳ですが、いつ講演内容を構成されたのだろうか?と思うくらい多忙な動きをしています。
ご本人の中でいわゆる「伝えたい」思いによって産み出されるエネルギーかとはおもいますが、それにしてもすごいことだと感じます。
終活のお話の中でもいつも「今日一日」とのキーワードを頻繁に使うのですが、一期一会の縁起の中で先ずは感謝の思いを持つことこそが重要であると感じます。
「明日ありと思う心の仇桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」
これは浄土真宗の開祖親鸞聖人が詠まれたものと伝えられますが、まさに命はもちろん世に存在するすべては「無常」であります。なればまずは今日という一日に感謝する生活が、万物の霊長たる私たちの使命かと思わせていただきます。
再び訪れることのない「今日」に感謝しましょう。
身の丈に合わす。身の丈を計る。
池袋で若い母親と幼な子が「車」という道具によって亡くなられた。
お二人のご冥福をお祈りいたします。
近年、高齢者による交通事故が頻発している。
免許証の返納を呼びかけるも、なかなか返納に踏み切るひとは少ないのが現状。そんな中まさに取り返しのつかない事故が起きてしまっている。
日本では確か18歳から免許の取得ができたかと思います。私も高校を卒業する年に教習所へ通った。
あれから約30年が経過している。
高齢者では無いが、身体機能、瞬時の判断力などもはやピークは過ぎているでありましょう。
ところが皆さん如何ですか、毎年、歳を重ねているのですが、その自覚はあまり無いのではないでしょうか?感覚として、動きが鈍くなったとか、目が見えにくくなったとかはあるかと思います。しかし、心というか精神的には二十代と変わっていないのではないでしょうか。ここが問題!
人は皆、「死」に向かって生きています。
言い換えれば「死」のための準備を知らないうちに進めていると言えるのではないでしょうか。
だとすると、身体機能、感覚器官いずれも「死」に近づいているのです。
ならば様々な道具を使うにあたり、当然若い頃と同じ使い方は出来ない、と判断すべきであります。
「まだ大丈夫」この傲慢さが不幸の始まりであります。
自分は年齢並みであると、身の丈を計り、その身の丈に合わせた道具の使い方、あるいは自分では使わない、という判断をすることが大切であり、これも現代社会における「終活」の一つであります。
随想 スリランカの事件
どうして悲しみを増やすのでしょう。
スリランカで起きた多発テロ事件、死者は300人を超えたそうです。
報道によりますと、ニュージーランドの銃乱射事件の報復、との見方が載っていました。
イスラム過激派組織が実行を表明したとも書いてありましたが、斯様なことをする人たちはもはや信仰者ではありません。
信仰者とは神様や仏様の本心を知り、そのために自分が如何にすべきかを探り、神仏の本心に寄り添う生き方をする人を言います。
神仏の本心とは。
それは人々をして幸せたらしむる事以外ありません。いずれの宗教にも「人の創造、創生」の考え方があります。それらはいずれも神仏の意思によって始まります。信仰者であるならば、その神仏の本心を知る人たちはその意思をこそ、第一に尊重しなければなりません。
如何なる思いがあろうとも、人を殺めてはなりません。宗教は人を愛し、助けるためにあるものです。
世界の中でさまざまな信仰を持つ人たちがいます。素晴らしいことです。全ての人が正しい信仰を持つべきです。
テロや殺人を意図的に起こす人は、全くもって信仰者ではないことをお伝えしておきます。
願わくば犠牲となられた方々が、すこしでも安らかであるように、また、二度と斯様な事件が起こりませんように。合掌
だんだん具体的に
今朝の新聞に「高齢者の独居化」が載っていました。いやわかっていることではあれ、厳しい未来が見えてくるのは私だけではないと思います。
少子高齢化と言われ続け、もう何年が過ぎたでしょうか。どこでこの流れができてしまったのでしょうか。
いわゆる団塊の世代と言われる方が高齢者になり、そこから日本人の人口は逆三角形を描いています。
新聞には結婚の晩婚化、未婚率の増加とも書いてありましたが、日本という国が破綻する厳しい未来が見えてきていると思います。
科学の発達、医療の進歩、経済の発展によって私たちはほぼ守られた生活をしています。しかしその裏返しのように、人々の価値観は劣化の道を辿っているように感じます。
私ごときがこのブログでどれほど叫んでみても、態勢は変わらないでしょう。
でも一人づつでも気付く人が増えないと、取り返しがつかないことになると思います。
私や、いまこの文章を読んでいる人が直接的にその状況を目の当たりにすることはありません。
しかし、何代か、いえ何十代か先の子孫が涙を流さねばならないことになります。
ブレーキがかかるか否かわかりませんが、若い人たちには結婚をして、願わくば子供を授かって欲しいです。
父祖への感謝如何にせん。
物故の先輩を偲び。
昨日の15日は総本山金剛寺で、物故修行者慰霊法要が厳修され、桜花舞う良き日に全国から1200余名のご遺族がご参拝になられました。
今回、第50回の慰霊法要では新たに137体の物故修行者が追加せられ、住みよい世の中づくりに取り組まれた先輩諸氏を心からしのばせていただきました。
午前中は御詠歌の詠進とお説教、そして午後から慰霊法要でありました。
昼食は遺族用お弁当が配られ、御家族づれで楽しそうに召し上がっておられました。
法要後、3名の嘆徳文、そして遺族代表の謝辞と行事は続きました。
年に一度4月の15日はこのご法要が営まれ、開教以来、この世のお浄土を目指して、みおしえの実践に励まれた方々を偲ばせていただくのですが、何かこのご法要は特別な気持ちになります。
草創期の先輩は、信者さんからの浄財を少しでも世の中のために役立てようと、夏場は風呂を沸かさず、近くの川で行水されたとか、布教のため月に何足も長靴の底に穴が空いた方など、いま私が通ろうとしても通れない道を歩いてくださったのであります。
毎年このご法要に会うたび、自身を律する気持ちを新たにさせていただくのは、私だけではないと思います。
先輩物故諸霊、何卒浄土から我らを冥護下さらんことを。合掌