「無縁遺骨」より「自分遺骨」
中国新聞文化センターの主催で、
ニュースの窓 増える無縁遺骨というテーマで、取材にあたった新聞記者さんのお話があることを知り、午後から行ってみました。
場所は広島の中心部、中区基町はクレドビルの10階。丁度その上の階では確定申告の出先会場となっており、たくさんの方が出入りいておられました。
さて、定刻の15分前には開場、ザッと20名程おみえでしたでしょうか、来ておられた方はやはりご高齢の方、私が一番若かったです。いや違いました、講師が一番若かった、が正解です。
以前新聞記事として取り上げていた題材、わたしもこのブログで、1月17日にコメントしておりますが、そのお話でした。
ひと通り話が終わり、講師である記者さんから、「何かご質問は」と。
そこから少しずつですが、ダムの水が放流されるように、ひとりまた一人と口が開く。
そもそも今日は、「無縁遺骨」すなわち、孤独死や、全く身寄りの無い方の遺骨の話なのですが、その口から出る言葉は、記者さんの取材内容に対するものではない。何か。
全てが、「自分の家の墓」の事か「自分自身の遺骨のあり方」でした。
「散骨はどうしたらできるのか」
「改葬するには」
「手元供養はいくらくらい?また、どこに頼めばいいのか。」
「宮島の海に、パウダー状にしてなら勝手に撒いても大丈夫か」とまあ、「その辺りは終活カウンセラーに聞く話でしょ!」という中身ばかりでした。やっぱりでした。
シニア世代の注目は「お墓」もっと言えば、不敬な表現を敢えてしますが「遺骨の処分方法」となっております。
私は一昨年の秋から終活講座で、一貫して「人と人とのかかわり」を伝えています。私の講座を受講された方は、遺骨について、またお墓について、一定の考え方をもとに判断していただいておりますが、やはり一般の方々は、こんな感じになってしまっているんだ、が私の感想です。
すっごく怖かったです。何故なら来場者の私以外は、おそらく70歳以上と見られたからです。何が言いたいかと?
それはその方達のご子息は恐らく社会の中心で活躍しておられることが予想されます。
しかしその親御さんが「遺骨」とはどういう概念を含むものなのかをきちんと考えずに、目先の墓や遺骨のあり方に右往左往している。
この状態からは次の世代には、もっと「家」「家族」という価値観が薄化してしまい、悲しく、寂しい社会になっていってしまうと思うのです。
今後20年、30年のち自分たちはもういない、と見るでしょう。でもそこで終わっちゃダメなんです。自分は終わっても我が子、我が孫は生きているんです。それを思ったらもっともっと広い見方で、この問題を見ていかなければならないと思うのですが、どうも目先の情報に括られている感が否めないのであります。
私の講座の第3講では「葬儀・供養」についてお話していますが、今日改めて別仕立てで講演会を聞いて、このことについてのみ、特化してお伝えしないとダメかな?と思いました。
遺骨の多くは皆さんがお世話になった方がこの世に残した最後の遺品です。
簡単に判断できる事では無いと思うのであります。皆さんはどう思われますか?
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌