お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

北の守り

10日に行われた稚内での行事のため、8日から北海道入りをしていました。

行事後、86歳の母が暮らす千歳の実家に泊まり、本日広島への帰路につく。

 

稚内では昭和52年、当時92歳の開祖様が宗谷岬に立たれ、第二清浜に石碑を建立され、それ以来毎年現地で北の守りを祈念する行事を催行しており、今年は快晴の下現地での行事ができました。

毎年出向させていただく御縁をいただいておりますが、今年ははるかに樺太を見ることができ、利尻富士も綺麗に見えたのでありました。

f:id:obousansk:20180612144451j:image

午後からは、工藤 広稚内市長も御臨席される中、参議院議員山谷えり子先生の講演を拝聴いたしました。

国をまもるとは、国民を守るとは、大変為になるお話をお聞きしました。

 

旧ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、土足で上がり込んで来た事実を、どれ程の日本人が知っているでしょう。

 

ふるさと北海道、緑豊かなこの土地が、後世においても悲しいことが起こらないよう祈りつつ、広島への帰路に着きます。

納骨堂もいつか壊れる⁈

お釈迦様は私たちが避けて通れないものとして、「四苦」をおときになられています。

四苦とは生、老、病、死ですが、この生滅の法則はあらゆるものに例える事ができると思います。

何か物体が作られた、人々は大事に長く使おう、と思い大切に手入れをしながら使われると思います。

しかし、大切に手入れをしながら使っていても、いつかは劣化して、原型をとどめることができず、壊れてしまいます。

当たり前のことで、誰しもが知っていることかと思います。しかし知っていることと、気づいていることとは違うんですね。

f:id:obousansk:20180609142733j:image

昨日から仕事で稚内へ来ております。

新聞の広告に、大きな納骨堂ビルの写真があり、使用料などの案内が載っていました。

札幌の中心部に地上7階建てくらいでしょうか、総数400基の納骨壇が売り出されているようです。タイプは様々ですが、一体あたりに換算して20万円から25万円の価格です。

地下鉄の駅から徒歩5分、雨も雪も関係なくお参りできる納骨ビルのようです。

 

都会は土地が希少ですから、車をとめる駐車場も、平面から立体になっております。それと発想は同じかと思います。

しかしふと、思ってしまいました。

 

「このビル、壊れないのかな?」

 

いえ、いつか必ず壊れます。

その時、どうするのかな?

マンションを買うまたは借りるときには、宅建業法に従った契約を結び、買主、借主の財産を守るための条文が明記されます。それらはメンテナンスも含めて表記されますが、このビルはどんな感じなんでしょう。

 

また、いつも心配するのですが、この納骨ビルの運営母体が一般に言う倒産に至ったら、どうなるんだろう。

どこかのペット霊園がある日突然、無くなっていたことがありました。

 

お骨を扱う文化の変化は、時の流れの中である意味仕方ないかも知れませんが、「この先どうなるのか」をよくよく考えて、選択すべきかと思います。

 

大切な人が最後に残す形。どうすべきがベターか、一考されてはどうでしょうか。

ブラック部活⁈

f:id:obousansk:20180603174533j:image

中国新聞朝刊でまた新しい日本語と出逢いました。

「ブラック部活」です。

生徒さんの方ではなく、先生の方の語彙のようです。

クラブ活動の時間が教員の長時間労働という結果をもたらしている、ということだそうです。

文科省は昨年12月、学校での働き方改革について緊急に対策を講じたそうです。

学校が担う業務の適正化や教員の勤務時間に関する意識改革など。部活動についても外部人材の積極的参画などを推進するそうです。

 

とても難しい問題だと思います。

どうすることがベストかはわかりませんが、とりあえず私の時はどうだったかなと思いを巡らせました。

 

私は中学生の時、合唱部に所属していました。

(今は仕事柄、合掌部所属ですが)

毎年のNHK全国学校音楽コンクールへの出場が、大目標で必死に練習していました。

顧問はクラス担任も持ちながら、毎日遅くまで指導をしてくれていました。

夏休みには合宿も計画して下さり、共に汗をかいて時間を過ごして下さいました。

 

あれから四十年、綾小路さんではないですが、それだけ経過した現在でも、あの時受けた愛情に対して、感謝の思いは消えてません。

 

先生と呼ばれる方の立場は、今も昔も変わらない。何が変わってしまったのでしょう。

先生の個人の持つ権利(あまり使いたくない言葉ですが、便宜上)がある事も当然だと思います。家庭もあり、仕事と家庭のバランスを取らなくてはならない事も事実です。

でもそれも、昔も一緒じゃないでしょうか?

 

ただ、もしかして少し違うのは、先生と生徒やその家族との関わり方、関わりの度合い、このあたりが少し違っているのかもしれません。

今、うちには中学生の子供がいますが、小学生の頃から、住所や電話番号が載ったクラス名簿は存在していません。自治体によって違うのかもしれませんが、この個人情報を共有することの責任、覚悟が、当時は当然のこととして求められていたのだと思います。

だから、先生、生徒、親、この三者がトライアングルになって授業もクラブ活動も、思いの中でも支えることが出来たのだと思います。

 

本件も全ての先生が同じ考え方であるとは思っていません。しかし、未成熟な青少年を社会性を持つ成人に育むために、学校やクラブ活動の役割は大きいと思います。その意味において、強引かもしれませんが、先生には「先生」であってもらいたいと思います。

 

いずれにせよ、難しい社会構造になっていますね。

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

 

 

「いたみ」

世の中を見まわしますと、本当、嘆かわしいことがたくさんあります。

どうしてこんなに悲しみを伴うことが、世を覆ってしまっているのか。

ひとつの原因に「いたみ」の薄れがあるのではないかと思います。

「いたみ」

最もわかりやすそうなのは、皮膚感覚などの肉体的苦痛を伴ういたみでしょうね。

叩かれると痛い。つねられると痛い。引っ張られると痛い。わかりやすいですね。

 

でも、叩かれたことのない人は、痛いがわからない。つねられたことのない人も痛いがわからない。ですよね。

このほかにも、自分が痛みを感じたことは、誰もが同じく痛い、ということくらいは分かると思うのです。

でも、昨今は学校ではイジメが常態化し、体育会系では恫喝が常態化している。単に一例にすぎませんが、こういったことがそこら辺にたくさん転がっています。

何故ですか?

痛い感覚は、心身共にみんながもっているでしょう。

でもそのことが、相手へのいたみとして共感できなくなっている。

いたみということに対して、何も思わなくなってきているように思います。

どこからズレが始まったんでしょう。

 

犯罪でもそうです。

勿論加害者に非がありますが、被害者にはいたみが、そして加害者の家族や友人にもいたみが生じます。

イジメをする人、犯罪を犯す人は自分の身近な人さえも愛せなくなってしまっているのでしょうか。

でもそう考えますと、やはり愛が不足しているのでしょうね。

もっともっと愛さねばなりません。

愛する事を惜しまずに。愛する稽古をさえ、して行きましょう。

愛が満ちる時、いたみに対する感覚は回復される筈です。

愛は人の道です。

この世を良くするため、愛をたくさん植えて行きましょう。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

墓は「責任」か「信仰」か。

f:id:obousansk:20180529145033j:image

今朝の産経新聞一面トップに、

          墓地の管理費 滞納急増

                          政令市で22000件超

とありました。必然的に起きた事、と私は思います。人口減少に伴い、家墓の存在が急速に変化を遂げています。

以前にも、そう遠くない将来、墓の文化は無くなるでしょうと、コメントした事がありますが、その流れの一端であります。

 

さあ、ここで折角の素材が出ましたので考えましょう。何を考えるか?

「墓は管理責任物件か、信仰対象施設か」です。

墓の持つ役割りは何なのでしょう?

墓と私達の関係性は?

墓は誰のものなのでしょう?…

一言では片付きにくい案件ですね。

 

墓に入るのは、亡くなった方というか、その方の遺骨です。自分たちもいずれそこへ入る「かもしれない」場所。

でも入った方の方は、掃除も草取りもしない。

増してや管理費など、払えようはずがありません。さあ、一体誰のものなのでしょう?

 

生きている我々は「お墓参り」をします。

我々は「参る」方です。

一方、墓におられる、とされる方々は「参られる」方です。

墓には「参拝」が伴う。すると「宗教施設」?

さあ、色々考えてみてください。

この件は、継続してコメントアップして参ります。

流石産経新聞ですね。

国家存亡の経過を、この辺りの切り口から入るんですから、天晴れですね。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

 

形無き財産こそ

f:id:obousansk:20180525204515j:image

日大と関学のアメフトの一件は、誰が見ても結論の見える展開になって参りました。

最高学府という大学で、一体何が教えられているのでしょう。

表に見えているのはもしかして、氷山の一角かもしれませんね。

前にも触れましたが、大学や、部活動の中だけのことではありません。

日本の社会で常に起きている事かもしれませんね。

 

「連鎖」という言葉があります。

風が吹けば桶屋が儲かる」昔の人はよく言ったものですね。

この連鎖、我々はタイムリーな部分だけしか、当てはめないような気がしますが、長期的連鎖もまた然りではないでしょうか。

 

仏教は因果を説きます。(最近では因果を否定する仏教教団があるそうですが、意味がわかりません)

物事には必ず原因があって、そこに様々な要素が相まって、結果が生じる。これが「因果」であります。

ごくごく普通のこと。

 

最近、公職ににつかれる方の犯罪が目につきます。確かに昔に比べていろんなことが、厳格になっているのかもしれませんが、市長がセクハラで辞職、奈良の歴史あるお寺の管長さんが同じくセクハラで辞職、少し前は警察官が同僚を射殺、あげればきりがないかもしれません。

 

私はこう思います。

人は生まれてからずっと、育ててもらう環境、育つ環境。そして出逢う人や事象などによって、人格形成が成される。だとすれば、犯罪を犯す人は、

どこかの部分で誤った育ち方、出逢い方をしてしまった人、ではないでしょうか。

 

出逢いには喜怒哀楽がついて回ります。それはみんな一緒です。しかし、その出逢いによって、学び成長するのか、学ばず成長しないのかは、やはり育つ環境に原因があり、今の世はひと世代前の育て方に問題の元凶が少なからずあるのではないかと思います。

勿論全ての人ではありません。

 

でも「連鎖」すなわち「因果」から観ずるに、言い訳が通らない事実なのです。

終活の勉強をする中で、本当に人は、人との関わりをこそ大切にしなければならないのに、それがどんどんできづらい社会になっている事を痛感します。

もっと、目に見えない大きな存在を意識する教育が行われなければならないと思います。

 

「そんなことしたら、バチが当たるよ!」

皆さん最近聞かれましたか?

でもこの思想こそ、人を正しく教導する大切な理念であると、私は思います。

 

親が子に何を残すのか?

形無き財産こそ、本当の財産ではないでしょうか。

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

この度の出来事は。

今日午後、日本大学アメフト部の宮川さんの記者会見が行われ、報道を注視しました。

出す言葉を選ぶのに、辛さをさえ感じます。

 

会見から結論としては、監督、コーチの指示により行われたことでありました。今後、刑事事件に発展する可能性も当然示唆されますが、なんかズレてる!

勉強、経営、部活…当然ながらことの優劣、勝ち敗け、損得、みんな介在します。しかしそれは一定のルールの下に成立することであり、無法地帯においては、その優劣、勝ち敗けも意味を成しません。

何故、そんなベーシックなことが見えなくなっているのでしょう。

 

今回の件「イジメ」です。最近の言葉を使うなら「パワハラ」ですか。

会見の中、「理不尽」という言葉がありました。道理がない、道理が通らない、という意味です。

人は時として、理不尽な環境下、それを飲まねばならないことがあります。勿論程度物だと思いますが、ことの大小の違いはあれど、理不尽のもとで采配されている側は、イジメに遭っているということになります。

 

今回は特に、成人したばかり、将来永く社会で役に立っていってもらわねばならない青年が、こうした環境に置かれることに、とても悲しさを感じます。

「ならぬものはならぬ」この言葉が日本から希薄になってどれくらい経つのでしょうか。

範を示すべきはいったい誰ですか?

 

事件は法の下、裁かれて行きましょう、しかし今回の件から、「キチンと襟を正して、率先垂範せねばならないのは我々、いや私だ!」と気づく大人が何人なのか。

スポーツの世界、学生の部活の話、これはこういう事があった話、こんなとらえ方では、犠牲となった両方の学生さんに申し訳が無さすぎるのではないでしょうか。

今回の件、この国に住まう全ての大人が、我がこととして捉えるべきことと断言します。

 

被害者の方の心身の傷が、そして反則行為をした宮川さんの心の傷が癒えてくれることを願います。