終活博覧会
先日、地元放送局であるRCC主催の終活博覧会に行ってきました。
場所は南区役所前の県立産業会館、広いフロアに沢山の人が来ておられました。私が行ったのは土曜日でしたが、翌日の新聞には2300名との発表もありました。
地元大手の銀行や、弁護士事務所、行政書士会、葬儀社、保険屋さん、介護施設の法人、そのほか関連する様々なブースが軒を連ねていました。
メインステージではアナウンサーと、介護施設の方とのトークなどが展開されておりました。
30分くらいしかおりませんでしたが、すごい人。
やはり社会が抱える課題の中で、自分自身のことを考えていこうという方が増えてきていることを確信しました。
ただ一方で、どのブースも本人対ブースという感が否めず、これでいいのかな?という疑問が残りました。
たしかに自分自身のことですから、考えていくことは大切です。ですが家族との関わりの担保はなされません。
トークショーの際アナウンサーが、「子供はあてにならないかも知れないですし」との言葉が出ていましたが、そもそも一番土台となる部分が無いことを前提にいろんな話が展開されている。
対症療法と言うのでしょうか、いま一般に認識されている終活とはこんな形の提供ばかりであります。
私は人生の終焉を迎えようとするとき、人は最大値の人への執着を持つものだろうと思っています。
長く連れ添った相方との別れ。きっと寂しさの極みではないかと想像するのです。
もっと本当の終活の意味を知って、今日一日をいかに生きるか、これを知ってもらえる機会を作っていかなければならないと感じたのでありました。
どうか目の前の人ひとりを大切にできる生き方をして下さい。
祟り⑨
いよいよ完結!にしたいと思って書き始めます。
前回は「なんか」の話でした。
でも改めて日本人は目に見えない存在を認めて生きていることが確認できました。
皆さん地獄って知ってますか?
えっ、毎日?我が家は修羅地獄?
まあそんなかたは私のところへ相談に来て下さいよ。早いうちに。
まあ、知ってるというか、聞いたことあるけど、見たこと、行ったことない。ですよね。
見たことも行ったこともないから、無いって言えますか?言えないですよね。
仏教では地獄、極楽といったことを説きます。
一般には私達が死後、行くところと言われますが、行ってきた記憶がある方がないもので、ある、ないの断定は出来ないわけですね。
あったらどうする!
現世に生きる我々は、常に心と言葉と行いによって業をつくると言われます。
善き業、悪しき業、両方あります。
で、簡単に解釈するとこの業の善と悪と、天秤にかけて、善多ければ極楽近く、悪多ければ地獄近しという感じなんです。
で、行くときは?そう死後でしたね。
死後とは死んだ後、生きてない状態、つまり生命の維持活動が停止した状態。なので、ここから先は善も悪も業をつくることは無いのです。
ということは、まさに取り返しなしであります。
戻れませーん!
さあそんなとき、地獄が良いですか極楽が良いですか、その行き先。やはり極楽ですかな?
なれば善なる業を増やし、悪しき業を減らす努力をせねばならないですね。
「なんか」って心配しなくても良い生き方を選ばれたらいかがでしょう。
祟り。作るのは実はあなた自身です。
善き業を心がけて生きる人は祟りの心配はありません。でも悪しき業をつくることで、祟りのリスクは高まります。
奢り高ぶることなく、すべてに感謝して、人に優しく愛を込めて。常に謙虚さを忘れず、目に見えざる存在に対し、畏敬の思いを持つならば、祟りとは無縁の生活が出来るでしょう。
祟り、ありますよ。でもすべてその種は自らが蒔いたものであることを、自覚して下さい。
あー、何とか完結できました。
でもありがたいことに、気がつけば陽数の極、⑨で結ぶことができました。
これからもお坊さんが語る終活ブログ、ご愛顧のほどよろしくお願い致します。
祟り⑧
祟りも8回目です。書けば書くほど次が続いてしまい、中々結論までたどり着けません。
祟られる何らかの原因。
よく病気や怪我が続いたり、科学的解明ができないときに使いませんか、
「なんかあるのかもしれない」よく聞くパターンではないですか。
この「なんか」これが祟りの正体でしょうね。
「なんか」とは断定ができないことから発生する言葉ですが、これはずっと断定できない存在なのだろうとおもいます。
よく霊能者的な方が判断する、いわゆる拝み屋さんと呼ばれる人がいます。その方の能力の正否はわかりません。でもその方が断定した所見から状況が変わることもまた事実だったりします。
でも「なんか」は私たちにとっては固体として確認できるものではないのです。
「なんか」いい言葉じゃないですか?
「なんか」という感性があるからこそ、自分自身のわきまえに思いを致すことができ、目に見えない存在の不可思議に畏敬を感じることができます。
「なんか」この存在が私たちを幸せにも不幸にもして下さる、いやこの存在をどうするかによって、私たちが幸せにも不幸にも、どちらでも選べる、という事が正しいのでしょうね。
次回で完結にしたいと思っています。
出来ない、オトナ。
3日間の本山勤務を終えて、のぞみ51号博多行きで広島へ帰る車内。
とある号車のとある座席、私は○番のC席に座らせていただきました。
A席に座って、一生懸命にパソコンを操っていた、若干白髪の男性が、H駅で降りられました。
何気なく、立ち去ったあとに目をやると、空き缶とビニール袋。
なぜ、出口のダストボックスまで持っていけないんですかね?
私達が暮らさせてもらっているこの地球。
もしも地球がゴミで覆われたら、結局自分も困るのではないでしょうか?
「これくらい」、一体どれくらい?
何事もこの「これくらい」の積み重ねから、病も災難も、また社会的公害も発生していることがわかってないのでしょうね。
世界の真の平和を望む人は、まず自分の足元の平和を築く努力をすべきではないかと思います。
嘆かわしい人が減るよう自戒のために神さまが見せてくれた場面でした。
見せてくださりありがとうございます。
祟り⑦
祟りシリーズ第7弾です。
前回は鶴の恩返しのお話をしました。
大自然の中には一定の法則があります。
一番わかりやすいのが、万有引力の法則でしょうか。「水は高きより低きに流れる」これは逆らうことのできない「法」であります。
法に逆らうことを「無理」すなわち「理りが無い」と言います。
この法の派生形が「因果応報・因縁」であります。
カボチャの種を蒔いたらカボチャがなります。
スイカの種を蒔いたらスイカです。間違っても夕張メロンはなりません。これが法であり、因縁であります。
物事の成り立ちには
因ー種、縁ー種を発芽させる要素、要因
果ー結果、といったルールがあるのです。
祟り。祟られる因、種が無ければ祟りは起きません。祟りがあるとすれば、そこに何らかの祟られる原因があるからに他ならないのです。
さあ、祟られる原因を誰が作るのでしょう?
そろそろ結論に近づいてきましたね。
祟り⑥
皆さんこんばんは。
いま私がブログを打っているのがたまたま夜ですので、こらえてください。
さて祟りシリーズも⑥となりました。
そろそろ皆さん
「なんでお坊さんが語る終活ブログで、祟りなんだ?」と思い始めておられますでしょうね。仰る通りだと思います。でも私からいえば祟りの概念は、終活のカテゴリーにおいてほぼ中心に近い素材なんです。もう少しお付き合いくださいね。
さて前回は、「あんたら、親がおらにゃここにゃおらんかったんじゃけの」という話をしました。(広島弁で失礼します)
このブログを見ている人、全員がその対象です、100%です。
皆さん「鶴の恩返し」ってお話知ってますか?
あれ確か、傷んだ鶴を助けてやって、そのあと突然娘が押しかけてきて、機織した反物を作って、でも絶対みちゃ駄目。でも見ちゃって、約束破っちゃったから、娘がいなくなっちゃう、というお話ですよね。
このお話は「報恩譚」として分類されますが、この報恩という考え方、本来全ての人が世の中の規則として心得るべき事柄であると、私は考えます。
鶴は助けてもらったから、恩返ししに来た。
でも恩返しするためには一定のルールがあった。
でも翁はルールを破っちゃった。
で、その結果娘は離れてしまう。
私達は親に産んでもらった、育ててもらった。
だから恩返ししなくてはならない。
生きている間の恩返しもあれば、亡くなってからの恩返しもある。
恩返しにはルールがある。
それ、しなかった。
幸せに暮らせる原資が失われる。
この話は祟りの話です。
恨んだり、呪ったり、これが祟りと思っておられますよねきっと。でもよく考えて下さい。
祟りによって引き起こされる事柄は我々にとって都合の悪いことです。
人としてのルールを破る時、因果応報、必ずその報いは来ます!
親に産んで、育ててもらった恩、これを返そうとしないならば、それはそれは特大のマイナスの因果が巡ってきます。これを祟りと言わずして何を祟りといわんや。
近年、祟られそうな発想をする人が増えてきてやしませんか?あなたは大丈夫かな?
少し長くなりましたか、ではまた。
ぼけますから、よろしくお願いします。
今日横川シネマで映画を見てきました。
「ぼけますから、よろしくお願いします。」
呉の実家を舞台としたドキュメンタリー映画で、みなさんもテレビでその一部をご覧になった方も多いのではと思います。
信友直子さん、彼女は呉市生まれで東大卒、認知症のお母様と、耳の遠いお父様の年老いて行く様をご自身が撮影されて作られた映画です。
長生きするようになった日本人。
本来嬉しい出来事のはずが、そうでない現実をもたらす。
高齢者となる人全てが認識しておくべき内容だと思いました。
やはりいつも申し上げるように大切なことは「家族」であります。
今、薄れ行く家族の関わりを見つめ直す機会として、このドキュメンタリー映画は大きな働きをするでしょう。
機会があれば是非ご覧ください。
個人的には早くDVDを出していただき、お寺の信者さんに見せてあげたい、と思うくらいです。
良い映画を見せてもらいました。