お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

祟り⑧

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祟りも8回目です。書けば書くほど次が続いてしまい、中々結論までたどり着けません。

 

祟られる何らかの原因。

 

よく病気や怪我が続いたり、科学的解明ができないときに使いませんか、

「なんかあるのかもしれない」よく聞くパターンではないですか。

この「なんか」これが祟りの正体でしょうね。

「なんか」とは断定ができないことから発生する言葉ですが、これはずっと断定できない存在なのだろうとおもいます。

 

よく霊能者的な方が判断する、いわゆる拝み屋さんと呼ばれる人がいます。その方の能力の正否はわかりません。でもその方が断定した所見から状況が変わることもまた事実だったりします。

でも「なんか」は私たちにとっては固体として確認できるものではないのです。

 

「なんか」いい言葉じゃないですか?

「なんか」という感性があるからこそ、自分自身のわきまえに思いを致すことができ、目に見えない存在の不可思議に畏敬を感じることができます。

 

「なんか」この存在が私たちを幸せにも不幸にもして下さる、いやこの存在をどうするかによって、私たちが幸せにも不幸にも、どちらでも選べる、という事が正しいのでしょうね。

 

次回で完結にしたいと思っています。

 

 

出来ない、オトナ。

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3日間の本山勤務を終えて、のぞみ51号博多行きで広島へ帰る車内。

とある号車のとある座席、私は○番のC席に座らせていただきました。

 

A席に座って、一生懸命にパソコンを操っていた、若干白髪の男性が、H駅で降りられました。

何気なく、立ち去ったあとに目をやると、空き缶とビニール袋。

 

なぜ、出口のダストボックスまで持っていけないんですかね?

 

私達が暮らさせてもらっているこの地球。

もしも地球がゴミで覆われたら、結局自分も困るのではないでしょうか?

「これくらい」、一体どれくらい?

何事もこの「これくらい」の積み重ねから、病も災難も、また社会的公害も発生していることがわかってないのでしょうね。

 

世界の真の平和を望む人は、まず自分の足元の平和を築く努力をすべきではないかと思います。

 

嘆かわしい人が減るよう自戒のために神さまが見せてくれた場面でした。

見せてくださりありがとうございます。

祟り⑦

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祟りシリーズ第7弾です。

前回は鶴の恩返しのお話をしました。

 

大自然の中には一定の法則があります。

一番わかりやすいのが、万有引力の法則でしょうか。「水は高きより低きに流れる」これは逆らうことのできない「法」であります。

法に逆らうことを「無理」すなわち「理りが無い」と言います。

この法の派生形が「因果応報・因縁」であります。

 

カボチャの種を蒔いたらカボチャがなります。

イカの種を蒔いたらスイカです。間違っても夕張メロンはなりません。これが法であり、因縁であります。

 

物事の成り立ちには

因ー種、縁ー種を発芽させる要素、要因

果ー結果、といったルールがあるのです。

 

祟り。祟られる因、種が無ければ祟りは起きません。祟りがあるとすれば、そこに何らかの祟られる原因があるからに他ならないのです。

さあ、祟られる原因を誰が作るのでしょう?

 

そろそろ結論に近づいてきましたね。

祟り⑥

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皆さんこんばんは。

いま私がブログを打っているのがたまたま夜ですので、こらえてください。

さて祟りシリーズも⑥となりました。

そろそろ皆さん

「なんでお坊さんが語る終活ブログで、祟りなんだ?」と思い始めておられますでしょうね。仰る通りだと思います。でも私からいえば祟りの概念は、終活のカテゴリーにおいてほぼ中心に近い素材なんです。もう少しお付き合いくださいね。

 

さて前回は、「あんたら、親がおらにゃここにゃおらんかったんじゃけの」という話をしました。(広島弁で失礼します)

このブログを見ている人、全員がその対象です、100%です。

 

皆さん「鶴の恩返し」ってお話知ってますか?

あれ確か、傷んだ鶴を助けてやって、そのあと突然娘が押しかけてきて、機織した反物を作って、でも絶対みちゃ駄目。でも見ちゃって、約束破っちゃったから、娘がいなくなっちゃう、というお話ですよね。

 

このお話は「報恩譚」として分類されますが、この報恩という考え方、本来全ての人が世の中の規則として心得るべき事柄であると、私は考えます。

 

鶴は助けてもらったから、恩返ししに来た。

でも恩返しするためには一定のルールがあった。

でも翁はルールを破っちゃった。

で、その結果娘は離れてしまう。

 

私達は親に産んでもらった、育ててもらった。

だから恩返ししなくてはならない。

生きている間の恩返しもあれば、亡くなってからの恩返しもある。

恩返しにはルールがある。

それ、しなかった。

幸せに暮らせる原資が失われる。

 

この話は祟りの話です。

恨んだり、呪ったり、これが祟りと思っておられますよねきっと。でもよく考えて下さい。

祟りによって引き起こされる事柄は我々にとって都合の悪いことです。

人としてのルールを破る時、因果応報、必ずその報いは来ます!

 

親に産んで、育ててもらった恩、これを返そうとしないならば、それはそれは特大のマイナスの因果が巡ってきます。これを祟りと言わずして何を祟りといわんや。

 

近年、祟られそうな発想をする人が増えてきてやしませんか?あなたは大丈夫かな?

少し長くなりましたか、ではまた。

ぼけますから、よろしくお願いします。

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今日横川シネマで映画を見てきました。

「ぼけますから、よろしくお願いします。」

呉の実家を舞台としたドキュメンタリー映画で、みなさんもテレビでその一部をご覧になった方も多いのではと思います。

 

信友直子さん、彼女は呉市生まれで東大卒、認知症のお母様と、耳の遠いお父様の年老いて行く様をご自身が撮影されて作られた映画です。

 

長生きするようになった日本人。

本来嬉しい出来事のはずが、そうでない現実をもたらす。

高齢者となる人全てが認識しておくべき内容だと思いました。

 

やはりいつも申し上げるように大切なことは「家族」であります。

今、薄れ行く家族の関わりを見つめ直す機会として、このドキュメンタリー映画は大きな働きをするでしょう。

機会があれば是非ご覧ください。

個人的には早くDVDを出していただき、お寺の信者さんに見せてあげたい、と思うくらいです。

 

良い映画を見せてもらいました。

祟り⑤

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祟りシリーズの第5番目となりました。

ほとんどの方が超自然的存在肯定派なのがわかりました。しかし現代は「多様化」という言葉のもと、いわゆる何でもありの考え方が横行しております。

何でもありとは「根無し草」と一緒です。

起点、出発点さえもわからない、そんな状況だと思います。

 

ところで、あなたの誕生日はいつですか?ときかれたら、余程なことがない限り答えられますよね。人には生まれた日があるのです。

あまりにも当たり前すぎて、叱られそうですが。

ということは人にはそれぞれ、人生の起点、出発点があるということです。だから人は根無し草ではない、根無し草であってはならないと私は思います。

 

みなさんには必ず二親があります。

父と母です。

いろんな事情で「いない」人はあるでしょう。でも精子卵子の結合による細胞が発生しない限り、生物は存在しないのです。だから必ず二親があるのです。

 

親がなければ自分はない。

いくら金を積んでも、この絶対の理は消えないのです。

今日はこのくらいにしておきます。

祟り④

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超自然的存在肯定派のみなさん、こんにちは😃シリーズ4回目です。

超自然的存在によって祟りが起こるわけですが、私たちの生活でどんな場面で超自然的存在との関わりを持っているのでしょうか。

 

皆さん、新たに建築工事をされる際、「地鎮祭」って言う儀式をするのを見たことありませんか?

一般には神式が多いかと思いますが、注連縄で結界を張って、祭壇に神籬(ひもろぎ)という神様の出張所的なものを立て、海山の珍味を供え、お祓いをします。あれ何ですかね?

 

世界に名を馳せるような大企業でも、地鎮祭は執行されるようです。

地鎮祭はこれからこの場所に建物を普請します。そこで生活や事業を致します。しばらくの間、お貸しください。との借用儀式ですね。

皆さんだって、自分の陣地に誰かが勝手に入って何かしてたら、怒りませんか💢それと一緒ですね。

 

やはり人々の大半は超自然的存在肯定派、ということになりますね。

 

また、次回へ。