お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

墓は「責任」か「信仰」か。

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今朝の産経新聞一面トップに、

          墓地の管理費 滞納急増

                          政令市で22000件超

とありました。必然的に起きた事、と私は思います。人口減少に伴い、家墓の存在が急速に変化を遂げています。

以前にも、そう遠くない将来、墓の文化は無くなるでしょうと、コメントした事がありますが、その流れの一端であります。

 

さあ、ここで折角の素材が出ましたので考えましょう。何を考えるか?

「墓は管理責任物件か、信仰対象施設か」です。

墓の持つ役割りは何なのでしょう?

墓と私達の関係性は?

墓は誰のものなのでしょう?…

一言では片付きにくい案件ですね。

 

墓に入るのは、亡くなった方というか、その方の遺骨です。自分たちもいずれそこへ入る「かもしれない」場所。

でも入った方の方は、掃除も草取りもしない。

増してや管理費など、払えようはずがありません。さあ、一体誰のものなのでしょう?

 

生きている我々は「お墓参り」をします。

我々は「参る」方です。

一方、墓におられる、とされる方々は「参られる」方です。

墓には「参拝」が伴う。すると「宗教施設」?

さあ、色々考えてみてください。

この件は、継続してコメントアップして参ります。

流石産経新聞ですね。

国家存亡の経過を、この辺りの切り口から入るんですから、天晴れですね。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

 

形無き財産こそ

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日大と関学のアメフトの一件は、誰が見ても結論の見える展開になって参りました。

最高学府という大学で、一体何が教えられているのでしょう。

表に見えているのはもしかして、氷山の一角かもしれませんね。

前にも触れましたが、大学や、部活動の中だけのことではありません。

日本の社会で常に起きている事かもしれませんね。

 

「連鎖」という言葉があります。

風が吹けば桶屋が儲かる」昔の人はよく言ったものですね。

この連鎖、我々はタイムリーな部分だけしか、当てはめないような気がしますが、長期的連鎖もまた然りではないでしょうか。

 

仏教は因果を説きます。(最近では因果を否定する仏教教団があるそうですが、意味がわかりません)

物事には必ず原因があって、そこに様々な要素が相まって、結果が生じる。これが「因果」であります。

ごくごく普通のこと。

 

最近、公職ににつかれる方の犯罪が目につきます。確かに昔に比べていろんなことが、厳格になっているのかもしれませんが、市長がセクハラで辞職、奈良の歴史あるお寺の管長さんが同じくセクハラで辞職、少し前は警察官が同僚を射殺、あげればきりがないかもしれません。

 

私はこう思います。

人は生まれてからずっと、育ててもらう環境、育つ環境。そして出逢う人や事象などによって、人格形成が成される。だとすれば、犯罪を犯す人は、

どこかの部分で誤った育ち方、出逢い方をしてしまった人、ではないでしょうか。

 

出逢いには喜怒哀楽がついて回ります。それはみんな一緒です。しかし、その出逢いによって、学び成長するのか、学ばず成長しないのかは、やはり育つ環境に原因があり、今の世はひと世代前の育て方に問題の元凶が少なからずあるのではないかと思います。

勿論全ての人ではありません。

 

でも「連鎖」すなわち「因果」から観ずるに、言い訳が通らない事実なのです。

終活の勉強をする中で、本当に人は、人との関わりをこそ大切にしなければならないのに、それがどんどんできづらい社会になっている事を痛感します。

もっと、目に見えない大きな存在を意識する教育が行われなければならないと思います。

 

「そんなことしたら、バチが当たるよ!」

皆さん最近聞かれましたか?

でもこの思想こそ、人を正しく教導する大切な理念であると、私は思います。

 

親が子に何を残すのか?

形無き財産こそ、本当の財産ではないでしょうか。

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

この度の出来事は。

今日午後、日本大学アメフト部の宮川さんの記者会見が行われ、報道を注視しました。

出す言葉を選ぶのに、辛さをさえ感じます。

 

会見から結論としては、監督、コーチの指示により行われたことでありました。今後、刑事事件に発展する可能性も当然示唆されますが、なんかズレてる!

勉強、経営、部活…当然ながらことの優劣、勝ち敗け、損得、みんな介在します。しかしそれは一定のルールの下に成立することであり、無法地帯においては、その優劣、勝ち敗けも意味を成しません。

何故、そんなベーシックなことが見えなくなっているのでしょう。

 

今回の件「イジメ」です。最近の言葉を使うなら「パワハラ」ですか。

会見の中、「理不尽」という言葉がありました。道理がない、道理が通らない、という意味です。

人は時として、理不尽な環境下、それを飲まねばならないことがあります。勿論程度物だと思いますが、ことの大小の違いはあれど、理不尽のもとで采配されている側は、イジメに遭っているということになります。

 

今回は特に、成人したばかり、将来永く社会で役に立っていってもらわねばならない青年が、こうした環境に置かれることに、とても悲しさを感じます。

「ならぬものはならぬ」この言葉が日本から希薄になってどれくらい経つのでしょうか。

範を示すべきはいったい誰ですか?

 

事件は法の下、裁かれて行きましょう、しかし今回の件から、「キチンと襟を正して、率先垂範せねばならないのは我々、いや私だ!」と気づく大人が何人なのか。

スポーツの世界、学生の部活の話、これはこういう事があった話、こんなとらえ方では、犠牲となった両方の学生さんに申し訳が無さすぎるのではないでしょうか。

今回の件、この国に住まう全ての大人が、我がこととして捉えるべきことと断言します。

 

被害者の方の心身の傷が、そして反則行為をした宮川さんの心の傷が癒えてくれることを願います。

第三者ではいけない。

最近、耳と頭が麻痺してしまいそうになるくらい、痛ましい事件が次々起きている。

 

新潟で女子児童が23歳の男に連れ去られ、殺害され、列車事故に見せかけるため、線路内に遺棄された。

まだ、動機などについては明らかになっていませんが、何らかの性癖によることが想像されます。

「犯人が捕まっても、娘は帰って来ません」

親御さんの心中はとても察するに、あたり得ません。娘さんのご冥福をお祈りいたします。

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私達は最近、日常的に理解不能な犯罪ばかりを耳にします。しかし時が経ちますと忘れてしまいます。

今回の事件でも、今感じている憤りや、怒り、悲しみは、程なく感じられなくなってしまうのです。しかし、当事者は違います。娘さんを奪われたご両親は死ぬまで、このつらさを感じて行かねばならないのです。

また一方で、犯人の家族もまた、もって行き場のない苦しみを背負って行かねばならないのです。

 

私にも幸い子供が二人おります。男の子と女の子です。

僧侶の端くれの私がこんな事を言うのはどうかとも思いますが、私にとっての一番の恐怖は、多分、子供を失う事でありましょう。

想像しただけでも、おかしくなりそうです。

 

先程のニュース番組で、通学路の見守りボランティアが、高齢化しているのが問題だとコメントしていました。

正直、何言ってんだって感じです。

通学路の見守りの要らない社会は作れないのでしょうか?

 

交通に関して、ルールを守らせる意味でのサポートは有効であり、教育としても必要です。しかし、変な人から守るための見守り、それが高齢化で少なくなるのが問題だという発想の方向性が違うと思うのです。

 

何が犯罪者を作るのか?

なぜ犯罪者になったのか?

犯罪者に不足しているものは何か?

 

本気でみんなが、当事者としての意識をできる限り持ち、犯罪者を作らないための方法を究明しなければ、世の中は悪化の一途を辿って行くでしょう。

 

皆さんの身内が加害者になることもあります。

事故など過失の場合、状況によって仕方がないこともありますが、事件の場合、悩んでも悩みきれない、悔やんでも悔やみきれない。こんな事になるでしょう。

誰一人、犯罪を犯す人のいない国を、一人一人が当事者として、真剣に取り組んでいきたいものであります。

人とは何のためにこの世に生み出していただいているのか、何をしなければならないのか、これを知ってもらうしかないと思います。

先ずは、どんなことにでも感謝できる生き方の訓練が必要です。

幸せな社会を作るために、小さなありがとうをたくさん積み重ねてまいりましょう。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

 

サイパンから帰国

今年もサイパンでの慰霊法要を、無事に勤めさせていただきました。

日本人が決して忘れてはいけない島、それがサイパンです。

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物が豊かになり、平和を当たり前に享受できる環境にある私たちは、ともするとこれが当たり前のように錯覚する。

 

昭和20年8月6日、午前8:15.一発の原子爆弾が広島相生橋上空で炸裂した。

 

この事実は戦時下であったとしても、まさに晴天の霹靂であったと思います。

しかし、この事実が発生した一つの起源は、サイパン陥落の出来事であります。

 

当時の方々の思いにピッタリそいきることはできませんが、生と死を見つめるのに、サイパンはとてもよい場所であります。

 

皆さんも一度はサイパンを訪問して下さい。

 

ご覧下さり、ありがとうございました、合掌

お墓は正の財産、負の財産?

私たちには、必ずこの世の生涯を終える時がやって来ます。

昨日までお話をしていた、頼りの配偶者が今日は冷たくなり、寝息さえも立てない。

愛別離苦」という言葉は仏教の言葉でありますが、この苦しみ、悲しみは四文字で表すにはいささかこと足らぬ想いでありましょう。

しかし、定業の時は男女、尊卑、貧富の隔てなく訪れるのです。

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私達は亡くなられたその亡骸を荼毘に付します。そしてその亡骸が最後に残したものが、「遺骨」なのです。

 

少子高齢化の中、遺骨を火葬証明書を抜いた状態で電車の網棚の上に、さも忘れたように放置するような人のある昨今、お墓もまた正の財産から負の財産に変わる傾向にある気がします。

 

祭祀継承権。墓、仏壇、祭具などを引き継ぐ権限ですが、これが権限から義務に変遷を遂げております。

お墓がある事で、自分たちのご先祖様が残された、最後のしるしとしてのご遺骨を大切にお守りする事ができ、またそこに自分たちも家の一員として収まる事ができる。これが墓の持つ意味かと思います。

しかし昨今の風潮は、祭祀継承権を引き継ぐと、墓守りをしなければならない、年忌の勤めをしなければならない、寺との付き合いを強いられる、などという感覚が前面に出て来ているようで、そこから墓じまいや、仏壇じまいという考え方が生まれたのだと思います。

 

墓は負の財産なのでしょうか?

 

一般的に人は適齢期に相手を見つけて結婚し、ほぼ多くの方は子を授かります。

そして、ほぼ多くの親は子供を愛し、子供を守りながら育てておられます。

父親は父親として子とかかわり、母親は母親としてかかわりを持ちます。

特に母親の愛は「無償の愛」と言われます。

しかしそのことを知らない、或いは気づかないまま大人になった子は、墓を正の財産とみなすことができなくなるのだと思います。

 

親があって、子がある。

この逆は存在しません。

 

様々な環境のご家庭があろうと思いますが、少なくとも墓を負の財産として捉えるような子育てだけは避けねばならないと思います。

それにはどうするか、簡単です。私たちが、仮に親が他界していたとしても、その親を敬い、尊敬し、これ以上ない自分の恩人であることを、子に、その姿、態度を持って見せればいいのです。

 

墓は負の財産ではありません。

家族や子孫を守る正の財産です。

 

その考えを土台として、その上でどうするかを考えていただきたいと思います。

これからの20年、「多死社会」となります。

どうぞご自身の足元をしっかりと見て、後悔のない人生を送っていただきますように。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

終活講座第2講 横川会場

今日は午前中、横川駅前の西区民文化センターで、第2講モノの整理と処分の講座を開催致しました。

やはりGWということからか、当日欠席が目立ちましたが、それでも15名の方が熱心に受講されました。

 

ティーブレイクの際、ご夫婦で受講されておられる方から

「私たちは先生のお話を夫婦で聞かせてもらっていますので、終活もしやすいです。お互いが理解して出来ること、この講座のおかげです。」というお言葉も頂きました。

 

また、質問ではやはり「お墓」がらみでした。

今日の質問はまだ楽でした。楽というのも変ですが、これから墓を建てようと思う、といった内容でしたので。その方のバックボーンに合わせた回答を致しました。

 

そんなことで、今日も楽しく終活の勉強をさせていただきました。

次回第3講「葬儀・供養」は5月26日の午前10:00〜12:00、場所は私の職場「お寺」で致します。

もう既に課程を終えておられる方でも、もう一度聞いておきたい、という方は遠慮せずお申し込みください。

 

今日が一番若い日であることを知って、頑張っていきましょう!

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌