お坊さんが語る終活

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久しぶりの広島

サイパンから帰国後、昨日まで大阪の本山の業務を遂行しておりました。

昨夜は、弁天町にあるホテル大阪ベイタワーてで、大阪市仏教青年会結成60周年記念行事に出席させていただきました。

 

大阪市内の青年僧侶の方々や、府下のご寺院の方々、近年、市仏青、府仏青の方々と親交が深まり、色々な会合でお顔を拝見する機会が増えております。

 

知った顔があると、やはりホッとします。

これが、人と人とのかかわりから得られる功徳なのでしょうね。

 

さて21日はご親教という、幸せをいただく行事が私のお寺で開催されます。

私がサイパンにいる間も、家内をはじめ、修行中の修道生も、信徒の皆さんと心ひとつに準備をしてくださいました。ありがたいことです。

 

明日は朝1番で再び大阪本山へ、大切な会議が終わり次第、帰広する予定です。 

 

明日もよきかかわりをいただけますように。

 

ご覧下さり、ありがとうございました?。合掌

サイパンより帰国

サイパン便りも最終となります。

今朝未明、3:00にホテルを出発、5:15アシアナ航空仁川国際空港に向かいました。

 

仁川国際空港で、約6時間待ち合わせをし、14:05フライト、関西空港に15:40到着致しました。

 

おかげ様で全員事故なく帰国することができ、本当にありがたいことと感謝いたしております。

今回改めて、本当に日本を知るための方法の一つにサイパンがあると確信いたしました。

遥か南の小さな島サイパン島

でもそこに約100年前、日本人が大きく関わっていたことを、知ってもらわねばならないと思いました。

 

サイパンは今観光客の第1位が韓国、次いで中国、次に日本だそうです。

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この写真は私達が滞在したガラパン地区のホテルから見える位置に建設中の、中国系ホテルです。

ついこの間、約1000名の中国人が不法就労で摘発を受け、現在、ほぼ工事が進まない状況にあるということです。

 

組織的にそんなことをする国がどんどん入り込めば、ますます日本人は目を向けなくなってしまうでしょう。

 

この島を通じて日本を守ろうとした方々に、顔向けができるよう、もっともっと知らせなければいけない、という思いが募ったサイパン慰霊法要でありました。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

サイパン便り3

いよいよ当日を迎え、先発は7:45ホテルを出発。現地ラストコマンドポストへ向かいました。

朝から雲の流れが速いものの、とてもよい天気でありました。

到着後すぐに祭壇その他設営をし、本番を待ちました。

 

午前10時を目安に、地元ご来賓の方々も順次おあつまりくださいました。

 

アパタンサイパン市長、クリス政府観光局長ご夫妻、篠田サイパン領事、ペリー前観光局長ご夫妻他たくさんの方々がご参列くださいました。

法要後、クリス政府観光局長からご挨拶をいただき、来年以降もこの行事を歓迎し、末永い継続を期待します。とコメントくださいました。

 

全員で記念撮影をした後、バンザイクリフへ移動。遥か海の彼方に日本を仰ぐ岬の先端でまずは献花を捧げさせていただきました。

その後、教団慰霊碑前で勤行、再び記念撮影をした全ての行事を終えました。

 

先の大戦では約60000人の日本人がこの島で亡くなり、回収されているご遺骨は35000柱、まだ25000人がこの島の何処かでそのまま埋まっているそうです。

厚労省サイパンだけではありませんか、遺骨収集事業を行なっていますが、もっともっと積極的に進めるべきではないかと思います。

 

もし、皆さんのご家族が亡くなり、その行方がわからなかったら。

東日本大震災では、何年も遺体捜索が行われています。72年経った今、埋まっている人のことを知るご身内の方もほぼいないに等しいのだろうと思います。

でも、サイパンだけではないですが、日本を守ろうとした気高い人たちは間違いなくおられたのです。

彼らを私達は未来永劫、忘れてはなりません。

彼らが何を求めて、たった一つの命を使ってくださったのか、日本の国民すべてがそれを認識し、その恩に報いねば人道に反すると私は思います。

今日の法要が、御霊のお慰めとなり、魂の昇華に結びつくことを深く祈る一日でありました。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

サイパン島便り2

今朝未明、私達と同便の仁川経由で、本隊が到着。当初、その時間帯は他社便の着陸が多く、最悪の場合、ホテルに入るのが6時過ぎとの予想もありましたが、着陸は2番目も入国は1番始めであったらしく、5:15にはホテルに到着していただくことができました。

 

若干の仮眠をしていただき、10:45出発でまずはバンザイクリフでの清掃ボランティアを実施、次に14日の法要会場となる日本国政府が建てた慰霊碑のあるラストコマンドポストの清掃ボランティアを強い日差しの中、全員が心を込めて汗を流してくださいました。

どんなゴミが1番多いか、それはタバコの吸い殻でした。地元の方曰く、C国の観光客のものが最も多いとのことでした。f:id:obousansk:20170513220711j:imagef:id:obousansk:20170513220720j:image

午後は戦績の巡拝です。

ます、ラストコマンドポストの崖の上にある、スーサイドクリフ。

スーサイドとは自殺と訳し、バンザイ同様、米兵に追われた方々が、身を投じられた崖で読経回向を勤めました。

 

次は米軍の管理下にあるアメリカンメモリアルパーク内の現地チャモロ人の方の慰霊碑です。

当然現地の方も戦火に巻き込まれております。

 

最後にススペにある戦没日本人の碑です。

この碑は昭和49年、現在の中部太平洋慰霊碑が建立されるまで、名の通り、戦没日本人を慰霊する碑として、多くの日本人が手を合わせたところであります。

 

巡拝を終え、明日の慰霊法要の心づくりとして、現地、パシフィックイーグル社の社長であり、教団の海外特別顧問を兼務する、ウィリー松本氏よりサイパンの歴史や今について約1時間の講演を拝聴し、本日の日程を終えました。

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かつて、日本人が自分たちとおなじ教室で現地チャモロの人を学ばせ、一大サトウキビ産業を興し、まさに日本国を護る砦としてこの南の島があったことを、どれだけの日本人が知っているだろうか。

 

「知らせなくてはいけない」

私の心には只々、その想いが湧き上がる今日でありました。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌

サイパン島便り

サイパン島での2日目、朝から私達は明後日の慰霊行事に先立ち、現地での表敬訪問を致しました。

知事室、日本国領事館、市長室、政府観光局へそれぞれ訪問し、第11回を迎える慰霊行事の挨拶を行いました。

各官庁ともとても友好的に対応して下さり、過去10年の積み重ねの大きさを感じました。

 

表敬の最後にススペにある墓地へ行き、故イノス知事の墓参をしました。

イノス前知事は、私たちのおもいをしっかりと受けとめ、この行事の基礎をなすため、尽力下さった方であり、今日もイノス氏のご息女さま方が時を合わせて参列して下さいました。

 

このサイパンでの行事には、本当には様々な方が、一つ一つのサポートをして下さっていると思います。

日本側のツアーをサポートするJTB、現地のツアーをサポートするPMT、そして最も重要なサポートをして下さっている、パシフィックイーグル社のウィリー松本、綾子夫妻である。

 

松本氏とこの行事との縁起は後日に譲りますが、目に見えざる大きな力により動かされ、導かれていることを、納得させてくれるのがこのサイパン戦没殉難者慰霊法要であります。

 

明日未明、本隊のツアーが入彩します。

午前はバンザイクリフ、ラストコマンドポストのボランティア清掃、午後は戦績の巡拝です。

 

当初の目的が果たせられますよう、祈りつつ、進めて参りたいと思います。

 

ご覧下さり、ありがとうございます。合掌

サイパン島へ向けて

5月10日(水)17:15 OZ113 関西空港発仁川空港行きにフライト。

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仁川空港で3時間の乗り継ぎを経て、翌、現地時間午前3時20分、私達慰霊法要先発は、サイパン空港に到着しました。

宿泊のお世話をいただくガラパン地区のフィエスタホテルに4:15到着、ベッドについたのは5:30でした。

 

その朝、8:30から朝食、10:30からいよいよ先発の業務を遂行致しました。

 

まずは教団慰霊塔のあるバンザイクリフ

島の最北端にあり、日本人が母国に想いをつのらせながら、身を投じた絶壁です。

 

一行は慰霊塔を清掃し、そのあと、最後の司令壕があったラストコマンドポスト。ここには背後に米軍艦砲射撃のあとを残す切り立った崖をいただく日本国が建立した中部太平洋慰霊碑があり、一行は14日当日の設営確認を行った。

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それから、地獄谷と呼ばれる夜戦病院跡の手前で読経回向をし、極楽谷と呼ばれる夜戦病院跡へも登り、読経回向をした。

 

わたしは昨年に続いて二度目になるが、双方夜戦病院と言っても、辛うじて雨露がしのげる、沖縄で言うガマ、すなわち山の中腹のくびれであります。

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最北端のバンザイまで行けない負傷兵は、みなそこで自害したと言うことです。

地獄谷、極楽谷の名の違いは、地獄谷に比べて、雨季になると、沢ができ、水分の補給ができたから極楽谷との事でした。

極楽谷には天然の柑橘類がたわわに実り、当時の方々も口にされたであろうかと思いつつ、我々もそれを口に致しました。

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襲いくる米兵に怯えながら、臨戦できないジレンマとなら戦いの中、その想いを測るとき、言葉が出て来ません。

 

サイパン島は現在、韓国からのお客さんが多いようです。次か中国、日本はかなりすくないとのことでした。

 

72年前、日本統治であったこの島を命が けで護ろうとされた方々が居たことを、多くの日本人は知らない。

若い世代の人にこそ、事実を知って想いを寄せてもらいたい。

 

明日は二隊にわかれ、ススペにある日本人墓地を清掃。もう一団は知事、日本国領事、サイパン市、そして観光局への表敬訪問がございます。サイパン、第1日目の報告でした。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。

サイパン島への準備

今日から、5月14日に行われる、第11回サイパン戦没殉難者慰霊法要の準備のため、大阪入りしました。

明後日、関西空港から仁川経由でサイパン島へまいります。

 

大東亜戦争末期、当時絶対国防圏と言われたサイパン島は米軍により陥落します。

 

昭和20年8月6日広島に人類初の原子爆弾が投下されましたが、その爆弾を乗せたB29が飛び立ったのは、サイパン島のとなり、テニアン島でもあります。

 

サイパン島の北端に、バンザイクリフという崖があり、遥か海の彼方の母国への想いをつのらせながら、母なる日本の弥栄を願いながら、命を絶たれたあまたの日本人がいました。

その諸霊に対し、教団は毎年現地での慰霊法要を勤めており、本年、11回を数えるに至ったのであります。

 

明後日から、サイパン島での行事や想いをを綴ってまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌