養子縁組
産経新聞の今朝の正論に、日本財団の笹川陽平会長が、「養子縁組を社会的養護の柱に」とのコメントがありました。
様々な事情により、生みの親と暮らせない子供達を引き取り、法的に実の子として育てる特別養子縁組が欧米諸国の社会的養護の柱になっているそうです。
我が国では、社会的養護を必要とする子供約46000人のうち、84パーセントが乳児院や児童養護施設で、16パーセントが里親家庭やファミリーホームで暮らし、特別養子縁組はわずか500件前後とのことです。
現在の児童相談所がその窓口の一つになっているが、虐待や非行といった案件もあり、人手不足状態のようです。
厚生労働相の資料では、不妊治療を受ける夫婦は全国で40万件を超える一方、人工妊娠中絶の件数は新生児数の約20パーセント、186000件という。
養子縁組を望む夫婦は多い、中絶の前に育て先の親が決まることで、助かる子供も増えるのではないか。また一方で親権のこだわりから、養子縁組に同意しない保護者が多く、ハードルを上げているらしいです。
しかし、親になりきれないオヤの成長を待つ間に、子供達はどんな負担が強いられているかわからない。
ならばこれからのこの国を支えてゆく、未来の大人にもっと「求められている自分」としての価値を感じさせて成長してゆく道を拡げるべきではないでしょうか。
終活でも、直系卑属すなわち子供さんがおられない世帯とよく出会います。相続の問題一つとっても、養子縁組により周辺の親戚にかかる負担は軽減されると思います。
超高齢社会の日本、生まれ来る命と待ち望む人々双方に喜びをもたらすことは、国家目線でも、とても有効なことではないでしょうか。
笹川会長さんの意見、必要と感じました。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
終活講座第4講 和木会場
今日は、和木町民文化会館での第4講、遺言・相続について33名の方が受講下さいました。
遺言の必要性があるかないか、相続が争族にならないためにはなどを、皆さん真剣に受講下さいました。
ティータイムでは質問に、「終活とはあまり関係ないのですが、お彼岸の意味を教えてください。」と、本業エリアの質問が出るなど、第4講ともなりますと、本当にアットホームな空気のなかで講座が展開されています。
遺言・相続という法律に多く関わる内容ではありますが、そこはお坊さんが語る終活講座、何が一番大切な相続なのか、遺言に頼らない相続の目指し方などをお伝えさせていただきました。
人と人とのかかわり。何気なく通り過ぎれば、時だけが過ぎて行きます。しかし、意識してかかわれば、必ず良きかかわりを得られます。
受講生の皆さん頑張りましょう。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
卒業式
今日、娘の小学校の卒業式に列席してまいりました。
小学校6年間のいろいろな出来事や思い出を懐かしみながら、小学校の課程を修了できたことを嬉しく思い、学校や先生に感謝をさせていただきました。
卒業生入場になりますと、いまどきの現象ですね、スマホが一斉に向けられておりました。
どの親御さまも感無量であったと思います。
そんな中、国会や日本の首都では同じキーワードが浮上しました。
「証人喚問」です。
この言葉が出るということは、虚言が生じているということであります。
人には過ちを犯す可能性があります。
故意であるか否かの違いはありますが、あやまちを犯したならばそれを素直に反省し、二度と再発させない努力をするしかないと思います。
そんな子供でもわかることが、なぜ大人は出来ないのでしょうか?
今日、広島市内で小学校を卒業した子供たちには、正直であることの誇りを忘れずに、一生を送ってもらいたいと思います。
日限のある人生を、胸を張り顔を上げて過ごしてまいりましょう。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
さくら
公立学校の合格発表の季節
あちこちで、悲喜交々かとおもいます。
さくらが咲くのか、さくらが散るのか、思春期の彼らには大きな出来事でしょうね。
人は常に「求め」を持って生きています。
「求め」が無くなるとき、この命も無くなることと思います。
しかし、「求め」に対して常に満たされる訳では無いのも、事実ではないでしょうか。
求めたものが手に入ると人は満足します。反対に手に入らないと、怒ったり、悲しんだりします。
でも、もう少し思いを巡らせてみて下さい。
どの結果であろうとも、私達の人生の「時間」の一部ではないですか?
ならば、どちらの結果も私達にとって、取り替えることのできない「経験」なのであります。
さくらが咲いたら、咲いた時間を頂いた。
さくらが散ったら、散った時間を頂いた。
あとは頂いた時間をどう自分に活かすか、ではないですか。
今日という、取り替えることのできない時間を、お互い大切に通らせていただきたいものですね。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌
世界平和を祈り
護摩供の主願は世界の平和と、東日本大震災、並びに熊本災害の復興祈願でありました。
時雨の中、回峰行者の方々の出仕のもと、森川天台座主様のお導師により、世界の平和が祈念されました。
比叡山は伝教大師最澄様がお開きになられ、法華経の考え方を中心にした修行が展開され、今でいう、総合大学としての機能があったと 言われます。
比叡山だけでなく、各地で世界平和は祈念されています。でもなぜ
、遼遠なのでしょうか?
それは、自らの足元を平和に固めるための努力を一人一人が怠っているからではないでしょうか?神仏に祈念すると共に、自らも平和を築くため、一人一人が努力しなくてはならないのでしょうか?
先ずは、愛する人に「ありがとう」から。
ご覧くださいまして、ありがとうございました。合掌
震災から6年、七回忌
今日は東日本大震災から丸6年、犠牲となられた方には七回忌をむかえられました。
かつて無い自然災害を目の当たりにした6年前でありました。
その年の6月に岩手県の被災自治体を、教団の特使として供養のため回らせていただきましたが、特に皆さんご存知の、奇跡の一本松のある陸前高田市は今も強い印象が残っています。
街が無くなる。と言う言い方が適合する状態でありました。
我々一行は自治体の中で、最も被災のひどかった場所で、読経供養を手向けてまいりましたが、さすがに陸前高田は適地の限定がむづかしく、最終的に多くの人が出入りしたであろう、市役所前で読経供養をさせていただいたのであります。
大自然の前に我々は超微力であります。
登山家が「山を征服」と言う表現をされますが、言語同断でありましょう。大自然に向かって、「征服」は傲慢としか言いようがありません。米一粒も自然の恩恵に浴している私達であることを自覚し、謙虚な生き方をすべきが、我々の本来の生き方ではないでしょうか?
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌