祟り⑥
皆さんこんばんは。
いま私がブログを打っているのがたまたま夜ですので、こらえてください。
さて祟りシリーズも⑥となりました。
そろそろ皆さん
「なんでお坊さんが語る終活ブログで、祟りなんだ?」と思い始めておられますでしょうね。仰る通りだと思います。でも私からいえば祟りの概念は、終活のカテゴリーにおいてほぼ中心に近い素材なんです。もう少しお付き合いくださいね。
さて前回は、「あんたら、親がおらにゃここにゃおらんかったんじゃけの」という話をしました。(広島弁で失礼します)
このブログを見ている人、全員がその対象です、100%です。
皆さん「鶴の恩返し」ってお話知ってますか?
あれ確か、傷んだ鶴を助けてやって、そのあと突然娘が押しかけてきて、機織した反物を作って、でも絶対みちゃ駄目。でも見ちゃって、約束破っちゃったから、娘がいなくなっちゃう、というお話ですよね。
このお話は「報恩譚」として分類されますが、この報恩という考え方、本来全ての人が世の中の規則として心得るべき事柄であると、私は考えます。
鶴は助けてもらったから、恩返ししに来た。
でも恩返しするためには一定のルールがあった。
でも翁はルールを破っちゃった。
で、その結果娘は離れてしまう。
私達は親に産んでもらった、育ててもらった。
だから恩返ししなくてはならない。
生きている間の恩返しもあれば、亡くなってからの恩返しもある。
恩返しにはルールがある。
それ、しなかった。
幸せに暮らせる原資が失われる。
この話は祟りの話です。
恨んだり、呪ったり、これが祟りと思っておられますよねきっと。でもよく考えて下さい。
祟りによって引き起こされる事柄は我々にとって都合の悪いことです。
人としてのルールを破る時、因果応報、必ずその報いは来ます!
親に産んで、育ててもらった恩、これを返そうとしないならば、それはそれは特大のマイナスの因果が巡ってきます。これを祟りと言わずして何を祟りといわんや。
近年、祟られそうな発想をする人が増えてきてやしませんか?あなたは大丈夫かな?
少し長くなりましたか、ではまた。