お坊さんが語る終活

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終活の大切さの理解のために

田村淳さんの終活体験としてお読み下さい。

 

「手術は、もうしない」コロナ禍で母を看取った田村淳が語る「母ちゃんとの最期のとき」
6/9(水) 8:21 Yahoo!ニュース 40
写真:現代ビジネス
 親が死ぬのはずっと先のことだと思っていた…。だけど、その日は容赦なく訪れる。そのときどんなお別れができるだろう? 
 未だ脅威の治まるところを知らない新型コロナウイルス禍。イレギュラーな事態に混乱の尽きなかった2020年は、誰しも忘れがたい1年だっただろう。

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 タレント「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳(47)にとってはなおさらのことであった。田村は2020年8月、コロナ禍の中、がん終末期で入院中の母・久仁子さんを亡くしている。久仁子さんは、一切の延命治療を拒否。尊厳死宣言書を残し、自分の最期を決めていた。そんな母の希望を、田村ら家族はどのように受け入れたのか。そこには、愛ゆえの葛藤があった――。

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田村淳(たむら・あつし)1973年、山口県下関市生まれ。1993年、田村亮と「ロンドンブーツ1号2号」を結成。バラエティ番組や経済・情報番組などレギュラー番組多数。2019年4月、慶応義塾大学大学院メディアデザイン科に入学。2020年8月より、遺書を動画にして、大切な人に想いを届けるサービス「ITAKOTO」ローンチ。2021年3月、同大学院修了。亡き母との別れを綴ったノンフィクション『母ちゃんのフラフープ』(ブックマン社)が5月31日発売
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「話があるから、電話をくれる?」そうLINEが届いた

オンライン取材に応える田村淳さん
 ――お母さまががんを発症されたのは、2015年のことでした。

 2015年の夏のこと、暑い日でした。母から来たLINEには、『話があるから、電話をくれる? 』と書かれていました。なんとなく変な感じがした。仕事が一段落してすぐに折り返しの電話をすると「あのね」と言い、ほんの少し間がありました。

 「あのね、お母ちゃん、がんが見つかったんよ」

 「お父さんに一緒に病院に行ってもらってな、検査した」

 「左の肺にな、見つかった」

 母は日頃から「うちは何かあった場合、延命治療はせん」と話していました。

 最初に聞いたのは僕が20歳の頃。看護師という仕事で、長年、医療の現場にいたことが関係していたのかもしれません。ここ数年は、実家に帰省するたび、口癖のように言っていました。

 だけど、いくら母がそんなことを呟いていても、そんなのは遠い未来の話であると高をくくっていたんです。それが急に現実になって、戸惑い、心臓のどきどきが止まりませんでした。

「もう手術はしたくないんよ」

 ーーその後、一度の手術を経て退院。術後の痛みに悩まされながらも、趣味の時間を楽しみ、順調に回復されているように見えていたと言います。しかし、2017年にがんの再発が見つかってしまいます。

 慌てて実家の下関へ帰りました。もう一度手術をするかどうか、という話になったのですが、母は「もう手術はしたくないんよ」と強く拒否しました。「他の治療も絶対にしない」と。

 この場合の他の治療とは、がん治療のこと。放射線や薬で抑えることも何もしない。たとえ進行してひどくなったとしても、医療で無理に命を延ばすことはしたくない、自然な死を迎えたいという、母のなかで揺らぎのない決め事でした。

 ――田村さんたちご家族は、その意思をどう受け入れたのでしょう。

 多少辛くとも再び手術を受けて、一日でも長生きしてほしい。それが僕らの本音でした。何回か、「考え直してみたら?」と言ってみましたが、母はけっして首を縦に振りませんでした。

 母ちゃんの本心はどこにあるのか。家族に迷惑をかけたくない、という理由だけで治療を拒否しているのではないか…。しばらくは、日に何度も心が揺れました。

 けれど母は、人生を投げ出したわけではない。延命治療をしたくないと言っているが、死にたいとは言っていない。死を現実に受け止めつつも、限られた日々をより丁寧に、より充実させていったように思います。無理に延命することで体に負担をかけるよりも、与えられた寿命を短くとも元気に生きること選択したのだ、と。

 死を考えることは、生きることなのかもしれない。いつしか僕もそう考えるようになりました。

残された人生でやりたいこと

photo by iStock ※写真はイメージです
 ――田村さんの新著「母ちゃんのフラフープ」のなかで、お母さまは<やりたいことノート>を作成していたというエピソードがあります。

 大学ノートに、残された人生でやりたいことを思いつくままに書き出したそうです。

 内容は
・銀座の資生堂パーラーでパフェを食べてみたい。
・北海道に行きたい。
・マカロン食べたい。
・家族みんなで屋形船に乗りたい。
など。

 「どれから始めましょうか」と僕の妻が訊ねると、「屋形船!」と無邪気に答えたといいます。そして2019年の秋、東京湾をぐるりと廻る屋形船遊びが実現しました。痛みは大丈夫かと聞いたら、「大丈夫。こんなに楽しけりゃ、痛みも忘れるっちゃ」って。

 できるだけ全部を叶えてあげたかったんですが、なかなか体調の面を考えると難しいものもありました。「フルーツサンド」が食べたいと最期に追加で書き記していたんですね。フルーツがぎっしり詰まった、生クリーム入りのサンドイッチ。でもそのときは、食べるものも喉がとおらない状態だったので、差し入れすることはできませんでした…。

 でも、母にとってこのノートは、すべて達成できていなくても、ひとつの夢や目標になっていたみたいです。

今生きている人へのメッセージ

写真:現代ビジネス
 ――残された時を過ごすなか、2020年、新型コロナウイルス蔓延の未曾有の事態となってしまいます。

 いちばん困ったのは、東京から出られなくなって、母に逢えなくなったことです。会いたくても、会いにいけない。医療崩壊という言葉を聞くたび、どきりとしました。

 緊急事態宣言が明けて病院を訪ねても、身内であっても一人しか病室に入れてもらえない。でも、6月に次女が生まれたのですが、死ぬまでに彼女を抱っこしたい、8月の自分の誕生日を家で家族で祝いたい、という母の願いをどうやって叶えるか。新しい孫を抱くことが、母の気力を支えているのだとわかりました。きっと最後の力を振りしぼっても会いたいだろうし、長年暮らした家に帰りたいのだろうと思ったんです。

 けれど「痛い」と言うと病院側としてもなかなか一時退院を許可しにくい。だから、母は痛みをこらえていたようです。そして8月、どうにかして母は退院してきました。滞在は1週間くらいでしたが、父が畳の部屋をフローリングに改装し、介護ベッドが置ける状況にして、次女をようやく抱っこできたんです。

 コロナ禍であっても、母と家族みんなで最期についての話し合いが事前にできていたから、死に対して後ろ向きではなく、死んじゃうんだけどこうしたい、こう生きたいという、本人の意思を家族として重視するというスタンスを取れたんだと思います。
死についての会話って、なかなかしたくない。いつか死ぬということがわかっていても、ほとんどの人は目を背けていたいのではないでしょうか。けれども、実際のところ親から「延命治療をしないで」と言われても、どう判断したらよいのか迷う人がほとんどだと思います。

 だからこそ、生きているうちに次の世代に言葉を残すということが重要なのではと思います。メッセージをきちんと残して気持ちを紡いでおけば、今生きている人の心の支えになるはずです。