如是我聞
仏教や宗教では「因果」を説きます。
「因果」を説かずして人倫を語る事は、器無しにして食を享くが如くであると思います。
因果とはすごく簡単な事です。
この秋にはカボチャが食べたいな。
じゃ、カボチャの種を蒔こう。
花が咲いたから受粉をしてやろう。大きいのがいいから少し摘花しよう。
大きくなった、収穫しよう。
以上が因果であります。簡単でしょ。
〇〇したから✖️✖️になった。です。
さて物事は必ず何かに起因して、結果を生じます。全て後から結果が付いてきます。
人生の結果は皆さんはどこに置かれますか?
定年を迎えて退職したとき。
夫婦どちらかが他界をしたとき。
子供が片付いたとき。
死するとき。
いずれも正解でしょうね。でもやはり最後ではないでしょうか。そうですよね。
ではこうなりますね、明日死んだら今日が結果ということに。で、いつも申し上げますが、いつ死ぬかわからないのが我々。
さあえらいことですね。
ところで、まあ100歩譲ってこの肉体を基準としてみたら、死ぬとき、となります。しかし実は魂は永遠に不滅ですから、もしかすると死んでのちして結果が出てくることもある、ということになるのであります。
そこで如是我聞です。
私も見たことないですが、次の生には住み心地の良い世界とそうでない世界があるそうです。
皆さんはどちらがお好みですかね。きっと住み心地いい方ですよね。
それでですね、私が聞いたことによりますと、毎日の生活に感謝多くして、不足少ない生活をしておくと、住み心地いい方へ行けるとのことです。
見たことも、行ったこともありませんよ。でもあるそうです。あるかもしれません。あるらしいです。
ここが肝心かなめです。
如何なる結果をもたらしますか?「如是我聞」