お坊さんが語る終活

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信仰と祈り

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長崎原爆の日、6日に続き11:02にはそれぞれ許す環境下、想いを馳せたでありましょう。

私はようやく初盆のお参りに出かけさせていただきました。

今日は安佐北区から安芸高田市へと車を走らせました。

 

県北は山に囲まれた地形が多く、車窓からの山肌に何本もの地滑りの跡が見られました。

「あの麓には民家や集落はあったのだろうか」

そんな思いしか出てこない。

 

西日本豪雨から一ヶ月が経つが、まだまだ時間が動いていないところがたくさんあるようです。

 

ふと、祈りについて考えていました。

「どうか安否不明者の方が早く見つかってもらえますように」

「罹災された方が一日も早く、元の生活を取り戻してくれますように」

「二次災害など起こらないように」

こんな心境はこの度の災害に、少しでも関わりのある人には、自然と湧き上がってくる感情ではないでしょうか。

これらは「祈り」と言えるのではないでしょうか。

またこの「祈り」の状態は目に見えざるものに対して、想いや言葉を投げかけている状態です。即ち、私達自身が信仰者であるという事実を示してくれるのであります。

 

いろんな方とのお出会いがあります。

その際、謙遜かもしれないですが、「何も信仰を持っていませんから、何もわからず」といった言葉を聴く機会があります。

この方たちは災害にあって、悲しみや苦しみを感じている方に対して、何も思わないのでしょうか?

そんなことはないでしょう、身近な方があればなおのこと、その思いは強くなるのではないでしょうか?

ならば特定の存在であるないはありますが、何かの存在にお願いしていることに他なりません。だとするとその「祈り」は「信仰」そのものです。

 

目に見えない存在に心を向けるこれが「信仰」のはじめの一歩です。だとするとほぼ全ての人が信仰のはじめの一歩を踏んでおられることになります。

罹災は大きな悲しみ、痛み、苦しみを伴います。しかしここで転ぶだけではいけない、起き上がりの一つとして、「祈り」を持つ自分は「信仰」を持っているのだ、ということを自覚をするきっかけとすべきでもあります。

 

全ての人が陛下にならって、祈らねばならないと思うのであります。

 

世の中に天災地変が起こりませんように。

 

悲しみが少しでも少なくなりますように。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌