お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

母なる自然がなぜ?

今月5日から降り続いた雨により、西日本は大きな豪雨災害に見舞われました。

4年前安佐南、安佐北区を中心に七十余名の犠牲者が出た広島豪雨災害、その悲しみからやっと脱け出ようとしていたこのタイミング、本当にどうして?という気持ちになるのは、私だけでは無いと思います。

 

今回は広島だけでなく岡山、愛媛など広範囲にわたる災害となりました。連日のテレビに映る光景はどれも目を覆いたくなるもので、当事者でない者でも罹災者の置かれた環境を思うと、心が引き裂かれるような感じがします。

本当に言葉の掛けようもない感じです。

 

昨日現在、広島県では99名の方が亡くなられています。行方不明の方は19名、もしかしたらもう100名を超えているかもしれない。

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自然災害の時、多くの人は

「いったい何を悪い事をしたと言うのか!」との心境になられるのではないでしょうか。

真面目に働いて、窃盗や脅迫行為も勿論していない。そりゃ、人と喧嘩したりはした、でも相手の命を奪うようなこともしていない、なのに。」こんな風に。

私も宗教という世界にいる者の一人として、いかに受けるべきかを真剣に考える。

解答に正不正は無い。でも敢えて持論を展開することにするならば、

大自然の上に乗せてもらって、生かさせて頂いているのが我々です。しかしいつしか、最大の恩恵を享受することが当たり前で、畏敬、感謝、慎ましやかさ、といった感性が徐々に薄くなってしまったのではないかと思います。

大自然は母です。

その母が、我が子である私達を苦しませたいはずがありません。なのに何故?

それはきっと、大自然という形の器の中にある我々が、その器の中の形にフィットしないものになってきているからではないかと思うのです。

金魚鉢に入れる水は、その鉢の形にフィットします。

しかし、硬い固形物を入れたなら、大なり小なり、隙間や歪みが生じます。その隙間や歪み、これが天災地変なのではないでしょうか?

 

伊勢御遷宮の用材を山から切り出す時、神職の方は祝詞を奏上され、作業を進めてもらいます。しかし、この切り株に木の穂先の部分を戻し、「中ほどだけを使わせて頂きます」というやり方をされるそうです。

まさにこれが、大自然と一体に生きる偉大な先人の知恵なのだと思います。

 

今はどうでしょう、野菜ができすぎた、価格が暴落するから潰してしまおう。

野菜はこの大地が無ければできはしません。

太陽の光が無ければ、空から降る雨水が無ければ出来ないのです。

大自然の営みを利用して、我々は生命の維持活動を継続させて頂いております。

万物の霊長として、そのお許しを与えて頂いています。しかし理法と合致しない生き方をしたとすれば、怒りとかバチとかではなく、理にかなわないという理由から、天災地変が起きてしまうのではないかと思うのです。

こんな事を書いても、被災者の環境が良くなることはありません。でも、もしも私の持論が強ち間違いでない、と思って下さる方だけでも

日々の暮らしに、自然と仲良く風や光を楽しみながら享受できる生き方をしてほしいと思います。

とにかく一日も早く行方不明の方が見つかり、罹災関係者の生活が普段に近づく事を祈ります。

この地球上に悲しみが少なくなりますやうに。