「元は我にあり」
前回に続き、広島市内の女子中学生が昨年、亡くなられたことに対して、いじめがあったことについての発信をしたく思います。
今朝の新聞には、昨日、市教委でこの件についての報告があり、委員から様々な質問、意見が出されたとのことです。
児童生徒を預かる、学校現場で生徒と生徒の関わりを先生がしっかりと把握をしてもらいたい、という気持ちも確かにあろうかと思います。
ですが一方で、こういうことが起こると、今の社会は「誰かと誰かが対峙する」というスタイルにすぐになってしまいます。
本件では、学校対〇〇という形かと思いますが、もしかするといじめの背景には、「自分たちの存在意義を成立させる手段として、弱い存在を必要とする」日本に割と近い、国土の広い国がよくやる手段ですが、そんな部分があるのではないでしょうか。
もしそうならば、問題が二度と発生しないためにどうすべきかは、協議されるべきです。しかし、半ば「詰問」に似たる対峙構造は、そこにこそ「いじめ」の起源があるのではないかとも思います。
つまりは私たち、先に生まれたものの「生きかた」から見直すべきではないかと思います。
川の下流が濁っていたとしましょう、この川はなぜ濁っているのでしょう?
答えは簡単ですよね、上流が濁っているからです。上流が澄めば、必ず下流は清らかな流れを蘇らせます。
市教委の皆さまが、今後、二度とこのような悲しいことが起こらぬよう、協議され、その方法が大きく子供達を笑顔にする効果のある、方策が尽くされます事を、私達は祈らねばならない、と同時に自らの心の姿勢は如何!常にここを外してはならないと思います。
対岸の火事を眺めている間に、実は足元がくすぶり始めるものです。
深呼吸しましょう。
ご覧下さり、ありがとうございました。合掌