お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

遺骨の行き場

昨日の産経新聞朝刊に

 

増える無縁遺骨

集合住宅から10柱超

東京、葬儀業者が放置か

 

という記事がありました。

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記事によりますと、粉骨業者に依頼をかけた都内の女性宅に、身内ではない遺骨の骨壷があったという。女性の主人はかつて葬祭関連の仕事に従事しており、身元不明者や引き取り手のない遺体を自治体の委託を受けて火葬後、そのまま放置した可能性を指摘しています。

 

「やっぱりね、そうでしょ」という感じです。

 

この話、皆さんは対岸の火事の如く、評論家的な視野で眺めてはいけませんよ。しっかり我のこととして見つめていただきたい。

 

「墓じまい」などという言葉が新たな日本語として出てきている昨今です。こんなことは当然ながらあり得る話だと思いませんか?

 

「遺骨」とは何ですか?

 

人には長くとも短くとも生涯、または人生というものがあります。

 

その中身がいかなるものであろうとも、一個人の人生であることには、何の区別もありません。しかしこれだけ少子化が進み、高齢者を支える人口が減少する中で、遺骨に対する軽視はひとつの流れです。

 

生きている親でさえ、施設へ預けて面会にも行かない。

次の対面は息が絶えてから。こんなケースがよく聞かれます。

 

亡くなってしまったら何も訴えません。

遺骨をどう扱おうとも、「虐待」とは言われません。

 

一方でこういったケースの要因として生活保護受給の高齢者の方の存在があげられます。

いわゆる「無縁」という人々もそうなる比率が高いのではないでしょうか?

 

すでになっている部分はどうしようもありません。しかしここから先、どうすれば少しでも回避できるのか。

 

とっても長い時間がかかりますが、「家族」という存在意義を正しく認識させることです。

 

結婚しない若者が増えています。

彼らはいずれ必ず、「他人」のお世話になります。ですがここで考えてください。日本は少子化高齢化です。何歳の他人が世話してくれるのですか?

80歳の人の世話を80歳の他人ができるのですか?

 

もっともっと日本人は、どうすべきかをちゃんと考えて、ちゃんと行動すべきです。

このままでは、一つしかない命を我々のために尽くして下さった、九段にお鎮まりの方々に申し開きが出来なくなります。

 

他人事ではない、老いた自分、遺骨となる自分のことです。

本気で考えてみませんか。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌