寒行結願
23日から始まった五日間の寒行も、本日早朝の祈願護摩供で結願を迎えさせていただきました。
昨日熊本と青森で地震があったそうです。もし護摩供最中に地震が起きても、結願にならないわけで、神仏のご加護により無事に勤めさせていただけたことに感謝しております。
毎日護摩供の後は講習会でした。
本日の総括講習は別として、「ご本尊様」「するもしないも」「喜ばれてますか」「徳」というテーマでお話を聞いていただきました。のべ140名の方が受講下さいました。
今日の総括講習では、「正しい事を学び、実践すること」を学んでいただきました。
講習が終わり、午後からは全体会議。諸連絡がありました。そこからのちは仏教文化講演会のプロジェクトチームの地域別の打ち合わせが行われ、各地区とも笑顔の人が増えることを願い、熱心に協議して下さいました。
そして15:30からは入院された信者さんの病気平癒の祈願護摩供を修法。皆さん真剣に仲間の快癒を祈って下さいました。ありがたいです。
今年の寒行、何かいつもと違う感じがしました。何が違うのか、どこが違うのか表現できませんが、何かいつもと違う。
きっとこの答えは一年通りすぎて、納得させられるんだと思います。願わくば、全てに亘って明るい方向に向かう形で納得させられたいと思います。
ご本山の寒行はまだ続きますが、先ずは広島の寒行、無事に終えさせていただきました事、神仏のご加護に感謝させていただきます。
第二十一日目 導師
1月6日入寒から数えて21日目、たくさんの出仕行者の方々とともに、星供養の護摩供の導師を勤めさせていただきました。
寒護摩と呼ばれ、2月3日の結願まで毎朝5時から勤められ、今年一年の天下泰平、玉体安穏、四海静謐、万民豊楽、別けては星まつり祈願申込者の除災招福を祈念されるものです。
浄火燃えさかる中、祈願者の名前の書かれたひな形を火柱の中へくぐし、ひたすら祈念。
無事に導師のお役を勤めさせていただくことができました。
今日21日目の祭儀の準備をしてくださった方、乳木に記名を施して下さった方、未明から集まって祈りを添えて下さった方々。
諸具に触れるたび、「ありがとうございます」と思念しつつ、お祈りをさせていただきました。
思いますに、何一つ一人では立ち行かない。
すべて、自分以外のどなたかのお世話をいただき、自分が成立しているのだと。
なれば、いかにすべきか。
「世話にならないように」などという傲慢さは離して、「世話になります」と素直に言うべきであろう。
そしてまた、自分が世話になる分、人のお世話もさせていただくことが大切ではないでしょうか。
人と人とのかかわり、面倒くさく、煩わしいことが今の日本にもっとも大切なことだと、私は思っております。
さあ、自坊へ帰って午後から、面倒くさいことの大切さをレクチャーしよう。
あらためて「家族」
国内の少子化、高齢化はもう耳慣れたキーワードでありましょう。耳慣れたキーワードではありますが、その危機感を身近に感じる方は少ないのかもしれません。
最近、色々考えます。
「何が今の日本を作ったのだろうか?」と。
勿論、大きなところでは日本国憲法に端を発していると思っておりますが、庶民レベルで何が変わったのであろうかと。
そしてまた最近、一つの仮定的結論を見つけました。やはり、という感じなんですが、
「家族の崩壊」です。
何によって崩壊したのか、根底は日本国憲法でしょう。しかし、もっと身近な部分では、「豊かさ」なのかなと思います。
「豊かさ」いいじゃないですか。と思うんです私も、でもこの豊かさの質が違っていたんではないかと思うんです。
難しい言葉でいえば、価値観の変容かもしれません。
よく「モノで栄えて、心で滅ぶ」などという言葉を聞いてきましたが、やはり経済偏重の流れが、家族を崩壊させる原資になっていたと言えるのではと思います。
私の論点の詳細は活字には仕切れませんが、昨今の世の中の事象、流れを見るとそう感じます。
これから日本人は「さびしい最期」を遂げる人だらけになります。このままだと。
それに歯止めをかけることができるのは、きっと宗教を基盤にしたコミュニティなんだろうと思います。
さびしさを感じていない現役世代のあなた、さびしさを感じないために必要なものは「時」であります。
「時」の使い方の如何によって、最期の自分が決まると言えます。
「良い仕舞いかた」老若問わず、学びに来て下さい。
仏教文化講演会のおさらい
今日は大寒、なんですがわりと温かな一日でありました。そんな中、はじめての試み、「仏教文化講演会のおさらい」をさせていただきました。
今回は8月講演の記録から「ありがとう」を主体とした部分を30分程度ご覧いただき、そこからおさらいを致しました。
集まられたのは40名程度とこじんまりしていましたが、皆さん熱心におさらいして下さいました。
動画を見てのち、
「皆さんは、受講後ありがとうをたくさん言うという、意識をもって生活してますか?」と聞くと、「はーい!」と。
では「昨夜お風呂に入りましたか?その時蓋がありましたね、それ開ける時、ありがとう、言いましたか?」「しーん。」
「じゃあ、洗面器で湯を汲む時、ありがとう、言いましたか?」「しーん。」
「お風呂上がりにバスタオルで体を拭いて、バスタオルにありがとう、言いましたか?」
「しーん。」
「やってないじゃないですかー!」
ありがとうはとにかく「言ったもん勝ち」と教わりました。幸せになる方法として、ありがとうを言う、という事を拝聴したわけですが、やってない。ということは
「幸せにならなくても良い」ということになりますよ。とまあ、そんな話から、今日からまたしっかりお稽古していきましょう。ということでお話を締めくくりました。
お昼は厄除雑煮をいただいて、護摩供。
今日はその講演会に来てくださった、お寺はじめての方3名もお参り下さり、お一人の男性の方は、行事の後お手伝いまでしてくださいました。やはり仏教文化講演会の効果は、時間が経って出てくるもんだなぁと感じた次第です。
水曜日からはいよいよ寒護摩供と講習が始まります。幸せをもっともっと牽引していけるよう、研鑽を積みたいと思います。
「命をめぐる決断」を観て
24年前の今日の朝、私は大阪の総本山での、寒行の護摩供奉修の最中、あの大きな揺れを体感しました。
ちょうど二番目の護摩供が終わったところでありました。
当時、拝殿という道場が護摩道場でありましたが、正面の大ガラスが飴のようにうねり、鋳物の大灯籠が今にも倒れそうになり、必死に抑えたこと、今も克明に記憶しています。
その後、諸堂を確認、大小の被害がありました。
それから神戸の状況が明らかになり、神戸のお寺へ車で向かった職員はまさに一日かかって兵庫区の道場に着き、変わり果てた建物を目の当たりにしたそうです。
あれから24年、もうそんなに経ったのか、これが正直な感想です。
今夜、NHKテレビで「命をめぐる決断」という番組を観ました。
救命医療の現場でのトリアージはよく聞く話ですが、救助現場でもトリアージが必要である事が放映されていました。
現場の消防士の方の葛藤はいかばかりでありましょうか。
目の前の命に決断を下さなければならないほど辛いことは無いと思います。
しかし、目の前以外の命も、災害現場には存在するわけであり、優先順位は付けざるを得ないのであります。
私達は自覚しなければなりません。それは自身の家族や身内のものの命も、見ず知らずの他人の命も、全て「命」である事を。
助かる命を早く救うことが絶対に必要なことであり、その判断はプロに委ねるしかないということを。
体調不良になると医療機関を受診しませんか?その時ドクターは処方してくださいます。
その処方を私達は拒否するでしょうか。いいえしません。処方を受け容れます。それと同じです。プロに委ねる。これが至極当然のことなのであります。
近く大きな震災が訪れるであろうことが言われております。先ずは自助、共助を認識し、公助においてはプロの判断を甘んじて受け容れる覚悟を日々持たねばならないと感じました。
やはりうれしい。
9日から15日まで、本山での勤務がありました。この1月の帰山は得度授戒会という、とても大切な儀式が執行されます。
この度は13日〜14日にかけて行われ、82名の新たな開祖様の弟子が誕生しました。
私は法務という役柄上、担当をさせていただいておりますが、一生に一度、魂の生まれ変わりの儀式、厳粛な行事であります。
いつも新たなお弟子さんの誕生に歓びを感じるのですが、今回は特別でありました。
昨秋、いろんなことがあって涙にくれていたであろう、姪がなんと授戒させて頂いたんです。
それも今月に入ってからという、一般ルールとしては異例中の異例、私も永く担当をしていますが、ここまでギリギリの申請は初めてでありました。
所属の住職先生がご苦労下さり、すべりこみセーフって感じでした。
お寺のことなどいろはのいもわからない姪が得度、とにかく二日間無事に過ごしてほしい、それしかありませんでした。
お陰様で戒を授かり、魂の生まれ変わりを無事にさせて頂くことができました。
で、それだけではなく、15日〜17日の教学院修養科第1組を受講する運びになったのです。
彼女が得度で何を掴んだのか、掴んでないのかわかりません。しかし、続けて修養科も受けることは私にとって驚愕に値します。
まさに驚愕院です。
終わってからの彼女の感想が今から楽しみでなりません。
少なくとも明日、明後日の朝、彼女は自分のためではない時間を過ごすことは間違いありません。願わくば生まれ変わった魂に、沢山の徳をつけて家へ帰ってもらいたいと思います。
おかげとしか言えない数日間でありました。
決まり手は「つきなおし」
お正月お供えした鏡餅。歳神さまのお年玉。
お寺では御宝前にお供えした鏡餅を3日にはお下げして、切餅にして一時冷凍庫へ。
20日には「厄除雑煮」としてこの一年の無事息災を願いつつ、「厄除箸」をもっていただきます。
どなたでもいただけますから、お近くの方は是非お越しください。ちなみに施与のお時間は11時半から12時半までとなっております。
さて、その餅切りですがどうしても言い方は悪いですが、「クズ餅」が出てしまいます。
今日はそのクズ餅から、カビの部分を切り離して、つきなおしをしました。
蒸し器で蒸して、その後つきなおしを致しました。流石に丸餅には出来ないので、のし餅に致しました。明日はカッティングをしたいと思っています。
今の御時世、食べ物に事欠くことはほぼ無いかも知れません。ですがわたし達は一粒の米、ひとしずくのお醤油さえも、自分たちの力で作ることは出来ません。
「米は農家の人が作る」
いいえ違います。農家の方は米が出来るお手伝いをしておられるのであります。
米という植物が大自然の営みによって成長し、万物の霊長と言われる私たちが、その命をいただいている、ということです。
すべてが当たり前では無い、すべてが有り難い奇跡の中に生かされて生きているのであります。
大相撲初場所はまだですが、我が家の今日の決まり手は「つきなおしー」でありました。
いただけることに感謝しましょうね。