お坊さんが語る終活

後悔しない人生を、笑顔の毎日を本当の終活で。

青年交流研修会

本日、山陰・山陽ブロック青年交流研修会が開催され、中国5県の青年さんが来寺され、学びと交流の時間を共有しました。

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開会後すぐに「年齢ピラミッド」なる全員型レクレーションをして心をほぐし、そのあと私がレクチャーして、慰霊法要から開祖様の思いを学んでいただきました。

豊かな時代に育つ彼らに、先の大戦で同世代の若者が愛する人のために命を捧げた事実を、伝えさせてもらいました。

 

お昼は信徒さんが真心込めて作ってくれた、美味しい美味しいカレーをいただき、お腹も満腹となりました。

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午後は班ごとに分かれて「なりたいわたし」について座談会を行い、コミュニケーションを図りました。

予定通り、15時に終了し、山口県鳥取県島根県岡山県への帰路につきました。

 

平素、シニアの方を対象にお話することが多い中、今日は若者に向けてお話しました、が、

聴かれた方はいかが思われたか?大丈夫だったかな?

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この青年の輪が太くなり、未来の住み良い世づくりのため活躍してくれることを、強く願わせていただきました。

関係各位に改めてお礼を申し上げます。

ありがとうございました。

自然災害をどう受け止めるか。

今夏、振り返ると自然災害の連続であった、と言えるかと思います。

6月18日、大阪北部地震

7月6日、西日本豪雨

9月4日、台風21号。

9月6日、北海道胆振東部地震

たくさんの人が命の営みを止められました。

 

何かあると、どこかに責任、原因を見つけることに慣れきっている日本人。自然災害の発生の責任、原因は?

 

人が亡くなることにより、悲しみが発生します。私たちがもっとも受けたくないもの、それが悲しみではないかと思います。

そのもっとも受けたくない悲しみを避けるため、人は話し合い、研究し、知恵を出し合って対策を講じます。しかしこの自然災害の前に、人知は時として何の効果も無い状況となるのです。

 

亡くなられた方を悼み、追善のため供養を手向ける。人として然るべき行為であります。

ではその次にすべきことは何でしょう?

復興のため、技術を投じ、被災された方々の不自由な生活を改善すること、もちろんして行かねばなりません。しかし、その前にしなくてはならないことがあると思うのです。

 

祈り」です。

 

犠牲になられた方を弔う際、ほとんどの方が宗教的感性のもと、死者を弔われます。この宗教的感性が存在すること、即ち、神というか仏というか目に見えざる存在の認識が、そこには歴然として存在しているのです。

なれば、全ての人が自らが信ずる存在で構わない、目に見えざる存在に天災地変無からしめる祈りを途切れなく捧げることが大切かと思います。

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台風で倒木した楡の木の根株から、彼岸花の芽が伸びていました。

毎年この時期、欠かさず芽を出し、真紅の花を天に向かってひろげます。

これも自然の営みなんです。

大自然に対して、私たちは如何に向き合うことが正しいのか、一人一人が考えないといけないことを知らされているのかも、との考え方は無責任でしょうか。

みんながバラバラに。

昨日の地元紙に

「個人情報  見守りの壁」との見出しがありました。

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その向かい側には

「子供たちを犯罪から守ろう」との全面広告がありました。

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前者は高齢者への見守りに、個人情報保護が弊害となっているという事を伝えています。取り上げ方としては、民生委員さんが知っている、地域の高齢者の情報を、守秘義務の下、漏洩できない。でも一方で、地域全体で情報を共有できれば、もっと見守りが出来るのではないか、とのことであります。

 

後者はうちの子も小学低学年の頃、教えてくれた「いかのおすし」であります。

この中で、行かない、乗らない、大声を出す、すぐ逃げる、知らせる。全く問題なしです。

しかし、子供への加害行為として、

声かけ34.2%

つきまとい16.0%

写真撮影13.9%などがあります。

 

このうち1番多い声かけ、読み違える人いませんでしょうか?

「子供に声をかけたら、予備犯罪とみなされるかも、だから子供に声をかけないようにしよう。」という風に。

 

今の日本の社会が抱える大きな問題の一つがこの「個人主義」だろうと思います。

 

「触らぬ神に祟りなし」そうかもしれないですね。でも、神の祟りを恐れる人は、神の存在を信じる人ですよね。

なれば「触らぬ神からお陰(功徳)なし」でもあります。

「我関せず」もうやめませんか?

人は人と関わらねば生きて行けません。

 

戦後日本は「共助」の社会から「公助」偏重の社会へとシフトしました。全体主義の是非はあるかもしれません、ですがあまりに占領政策に素直にハマりすぎたのではないでしょうか。

 

その結果、少子化となり、社会保障に頼りきりの社会となり、となりの人が誰なのか、何をしているのかも知ろうとしない、常に声をかけて、心を育まねばならない時期の子供に声がかけられないという錯覚まで。高齢者が町内に溢れかえっても、助け合えない、とまあ負の遺産は山ほどあります。

 

みんなバラバラです。

何がこんなにバラバラにしているのか、ちょっと考えてもらえないでしょうか?

 

夏休みが終わり、もしかするとまた青少年の自死がニュースに出るかもしれません。

キラキラ輝く彼らの瞳を誰が濁らせているのでしょう。

超高齢社会の余波「空き家」

お盆のお休みを海外で、という傾向がある中で、それでも実家でお墓参りを、という考え方の方もまだまだ多くいらっしゃいます。ある意味正しい行為と言えるでしょう。

 

そんな中、社会が抱える問題としての「空き家」のことについての記事が載っていました。

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総務省の住宅土地統計調査によると、昭和53年当時、空き家は268万戸だったが、平成25年には820万戸に。

野村総研は平成45年、あと15年後には1955万戸、空き家率27.3%との試算を出している。

 

空き家は様々な負の財産となる。

火事、敷地内の雑草、犯罪の拠点など、不安材料がつきまとう。

しかし少子化の波は止まらず、国内の家屋の需要は激減する。

 

今を生きている私達の世代としては、なるべく空き家を作らない努力程度で、お茶を濁せるかもしれない。でも先の日本ではそうはいかない状況が来る。

この状況からも日本の弱体化が明らかとなっているのがよくわかる。

 

高度経済成長を遂げた日本は、成長しない経済時の経験が無い。今後経済は間違いなく疲弊する。その中でいかに共存の社会構造を維持することができるのか、これが今後の課題だろうと思う。

 

空き家を作らない努力、一つ名案があります。

「同居」です。

生まれ育った地域に、世代を継承して同居生活を送る。多分これがもっとも合理的、かつ理想的なこの国の将来を作る手段ではないでしょうか。でも決して新しい方法ではありません、昔に戻ればいいのです。

年寄りも安心、子供らも安心。お互いが安心出来る環境を互いに求めるべきと思います。

 

「空き家」は家族がバラバラになっている「遺産」と言わざるを得ないのかも知れません。

人生、嬉しいこともあるよ。

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週末あたりから、報道各社が夏休み明けの若者の自殺について発信をしている。

今朝の新聞紙面にもそのことが掲載させていた。

紙面によると昨年の国内での自殺者数は21,321名と8年連続で減少。一方、19歳以下は前年比47人増の567人だと言う。つらい。

 

私には中学生の息子と娘がおります。

思春期になり、特にお兄ちゃんの方は、"順調に"成長の過程を進捗しており、親の勉強を日々させて頂いております。

しかし、幸いに学校でのことも教えてくれたり、友達のことなども話してくれる環境があるので、そこのところは有難く思っています。

 

話は少し変わりますが、来年は「御代がわり」の年であり、今上陛下がご譲位あそばされます。

第125代の天皇陛下が現在の天皇陛下であらせられますが、この第数は初代神武天皇様からであります。2600余年という時の流れが、今なお続いているのです。

この時の流れ、これは「愛」によって継続されてきたものと信じています。

そして、その「愛」の始まりは「愛される」ことからスタートしているのではないでしょうか。

 

この世に生をうけた瞬間、「愛される」ことがスタートします。いや、懐胎の時からが正しいのかもしれません。いずれにせよ、全ての人は「愛される」からスタートしているのです。

 

昭和54年、第46回NHK全国学校音楽コンクール、中学校の部の課題曲に山上路夫作詞、池辺晋一郎作曲「時は流れても」がありました。

 

当時私は中学1年、合唱部に所属していました。(今は合掌部の方ですが)

当時顧問の先生は木村七郎師、ワイルドな風体に似合わず繊細な感性を持った先生でありました。その先生の指導のもと、いわゆるNコンを目指して、毎日唄っていたのが当時でしたが、きっと今でも、その課題曲は通しで譜面なしで歌えます。

そんなこと自慢しても仕方ないですが、その歌詞の最後にこうあります、

 

時の流れは止まらないけど

自分の時間を生きていれば

いつかはきっと

あなたもわかる

時が育てた贈りもの

 

この歌詞をいま改めて実感できる年齢になった気がします。

悲しいこと、つらいこと、情けないこと、無いわけないでしょう。でも、先に歩んだ人の知恵や経験を借りながら、時を経ることで、この「贈りもの」を受け取ることが出来るのだと思います。

 

若い人たち、時の流れはきっと嬉しさや楽しさ、喜びをもたらしてくれますよ。

年上の方々、そのことを自らの経験を例えとして、語りかけてあげて下さい。

 

「愛」によって紡がれた糸は、「愛」によってのみ継続されると信じます。

この夏の若者の自殺が無く、愛する者の悲しみが起こらないよう、祈ります。

大化から平成へ

 

明年4月、今上陛下にあらせられてはご譲位され、平成の30年の御代が終わります。

昨夏の陛下のお言葉は「終活」そのものではなかったでしょうか。

 

ご自身以外の人々が、慌てないよう、また国の公務が滞らぬよう、正に生きることの手本を示されたお言葉であったと感じさせていただきました。

 

30年前、昭和の天皇陛下崩御あそばされた時は突然のことであり、国民も慌てざるを得ない状況であったと思います。しかしこの度は前もって諸準備が出来、誰もが心の準備ができる環境であろうと思います。

 

そんな中、元号表記について何やら変な話が入ってきました。

それは運転免許証の元号表記を廃止し、西暦表記にしてしまう、という話であります。

 

わたしは昭和生まれの人です。子供達は平成生まれであります。もちろん元号が無くなる訳ではないですが、運転免許証という自分の身分を証明するにポピュラーな公的文書に、元号が無くなるのには違和感を禁じ得ません。

 

警察庁によると外国人の免許保有者が86万人に登ることや、マイナンバーに西暦が使用されていることなどを説明していますが、ここは日本でしょ。

 

この話が聞こえてきたのでちょっと調べますと、元号の始まりはあの大化改新の「大化」から始まっています。確か645年でしたか?

そうすると実に1373年の永きにわたり、我々のご先祖様は元号を使ってきているのです。

ちなみに247という数が元号の数だそうです。

 

日本人は元号という時代のスケールを持つ民族であります。

今回もし、免許証の元号表記がそのまま通されますと、のちして元号自体不要という論法が出てきます。

 

先日も皇學館大学の松浦教授のお話を聞かせていただきましたが、日の本の国は、国民を「大御宝」として、日々国の安泰と国民の安寧を祈り続けておられる「天皇」をいただく国家です。正にそれが日本の文化の極みであります。

元号もその文化の大きな柱であります。

軽々に表記の廃止をすることは、私達の父祖に対し不敬な行為なのではないでしょうか?

 

9月4日まで警察庁ではこの件のパブリックコメントを募集しています。

心ある方、意見公募への投稿をお願いしたく思います。

 

提出方法はいずれも氏名、住所、電話番号またはメールの場合はアドレスを表記の上、

①メールはuntenmenkyo@npa.go.jpへ。

②郵送は〒100-8974

               東京都千代田区霞ヶ関2-1-2

               警察庁交通局運転免許課企画・法令係

                パブリックコメント担当あて。

③FAXは03-3504-3611

いずれも、パブリックコメントと表記が必要だそうです。

 

何か欧米の慣習に習うことが、先進的考え方であるような、古い考え方がまだまだあるようです。目下世界の中で最も人の命に関与できるIPS細胞は日本人が見つけたんですよ、知ってますか?

世界の範たる国として、伝統によって守られてきたことを今一度確認すべきであります。

 

心ある方、拡散をお願いします。

大東亜戦争戦没者慰霊法要

今日、お寺では大東亜戦争戦没者慰霊法要が営まれ、先の大戦で散華されたご英霊に感謝の誠を捧げさせていただきました。

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この法要は信者さんからの要請により、12年前から毎年8月の第三日曜日に勤めさせていただいております。

 

終戦の日には大阪の総本山で慰霊法要を執り行いますが、広島から参拝もなかなか叶わず、心ある方達からの希望で、勤めております。

 

現代の学校ではいわゆる自虐史観が専らとなっているようですが、日本が開戦に踏み切らねばならなかった経緯こそ、公教育の場で教えてあげて欲しいと思います。

口を開けば、侵略戦争、強制連行、そんなキーワードしか聞こえて来ませんが、要は兵糧攻めにあったこの国が、自存のために踏み切らねばならなかったのであり、決して欧米がアジアの諸国を植民地支配し、搾取を繰り返した歴史とは明らかに違うのであります。

 

「死んだら靖國で会おう」

この言葉の意味するものを皆さんはどう捉えますか?

私は宗教に関わるものです。ですから当然、魂という存在を信じます。そうあった時、前述の言葉は彼らの魂の行き場に関わる言葉であります。しかしこの国はWG IPの施策の下、戦勝国に押し付けられた「平和憲法」という偽善法の下、陛下はおろか、総理大臣までもが彼らの鎮まる御社にぬかずく事が許されないのであります。

 

終戦末期、特攻が組まれたことは誰もが知っています。作戦としての是非は別として、二十歳に満たない彼らが、気高い気概を持って散華したことは紛れも無い事実ではないですか?

もし、あなたのご子息が国家のために命を捧げて、そのご子息が侵略戦争の急先鋒であったかの如き評を下されたらいかに思いますか?

 

誠に悲しいかな、この国の病巣はかなり蔓延してしまっているとしかいいようが無い。

 

彼らが将来の我々に何を描いたのか、どんな人生を送って欲しいと思っていたのか、せめて、せめてこの月には、九段まで行かなくとも、思いを馳せてあげて欲しいと思います。

 

彼らの思いに恥じないこの国を、早く取り戻さねばならないと、私は考えます。

 

ご覧下さり、ありがとうございました。合掌